水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

このブログで、共に短歌を学び、短歌で遊べたら幸せです。
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LGBT

このエッセイは、主に水甕社の会員に向けて書いています。

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映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観たことはブログでも書いたが、クイーンのメンバーが新曲に関する記者会見を開く場面があった。そこで、記者たちはフレディ・マーキュリーのセクシュアリティに関して質問攻めにする。実際にそういう記者会見があったのかは知らないが、80年代における同性愛者への強烈な差別意識を考えると、マスコミが「ゲイ疑惑」を暴きたがったのは本当だろう。
マーキュリーがゲイであったこと、そして他の三人のメンバーたちがそれを承知していたことは、クイーンの作品にも大きく影響していたはずだ。しかし、彼らのプライバシーはもっと守られるべきだった。

シンガーソングライターと同様に、プライベートと作品が密接だと信じられている−−いわゆる<私性>重視の−−短歌表現の空間でも、似たような問題が起きやすい。
結社誌の作品を読むと、あの人には子どもがいて、孫が就職して、配偶者が亡くなって、そのあと親が亡くなって、自分が病気になって、ひ孫が生まれて‥などなど、プライベートがダダ漏れになっていることは多い。だから、全国大会などでお会いしたときに「あの歌の旦那様とは?」などいろいろと訊きたくなるだろうが、ちょっと待った!地雷かもしれんから気安くきかんほうがええで!!
特に若い人がセクシャルな歌を詠むと、気になって気になって仕方がなくて事情を訊きたくてしょうがなくなるだろう。でも、そこはぐっとガマンしよう。それが大人だ。訊いちゃったらそこで負け、セクハラですよ。ゲスい質問は絶対にしてはいけない。
歌と私生活は別、ということもある。そして、私生活から歌を作り上げたときでさえも、いや、そうだからこそ、対面では言って欲しくない、訊いて欲しくない、ということがある。性の歌ならその人の性はその歌がすべて、別れの歌ならその人の別れはその歌がすべてだ。
それと、個人的な感覚だが、過去を清算したつもりでもいろいろ訊かれて話しているうちに怒りが再燃することもあるので、気をつけたほうがいいと思う。久しぶりにお会いした先輩同人に離婚の事情を話しているうちに、先輩のお顔が小姑だった女性に見えてきてだんだんイライラしてきたことがある。

セクシュアリティを公開して歌集を編む歌人や、自身のセックスや身体を詠む女性歌人も増えてきた。だからといって、いや、だからこそ彼らのプライバシーや心は守られなければならない。面と向かって「あのエッチな歌の恋人とは、最近どう?」などとお訊きしてはいけないのだ、絶対に。

何も「表面的な付き合いに徹しろ」と言っているわけではない。信頼関係を築かないうちからズケズケとプライベートを訊くなと言っているのだ。しかし、私たちは有名歌人や同じ結社会員の歌を読むうちに、「自分がその人のことをよく知っていている」、信頼関係が既にあると一方的に勘違いしてしまう恐れがある。肝に銘じたい。特に男性会員や、年少者に対する年長の女性会員は気をつけられたし。

(水甕 重吉知美)

先日、映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観てきた。




ちょ、ちょっと待って!これ短歌ブログだから!あとで短歌の話するからタブを消さないで!!! 

イギリスのバンド・クイーン (Queen) の伝記映画である。1973年のバンド結成から、人気最盛期、バンド解散の危機を経て、1985年のライブエイド (Live Aid) での演奏までを描いている。ボーカルのフレディ・マーキュリーは、この後、エイズで1991年に亡くなっている。

伝記映画ではあるが、マーキュリーのマイノリティ(特にゲイ・セクシュアリティ)としての人生に焦点が当てられており、他の存命のメンバー三人のプライベートな部分はほとんど表現されていない。
ファンに知られている史実とは異なる描写もあるようで、例えばマーキュリーが最晩年の恋人ジム・ハットンと出会った時期と、HIV(エイズウイルス)感染発覚の時期を前後させているらしい。
まあ、私、クイーンのファンでもなんでもなかったんで、全部クイーンファンの同居人に聞いたりググったりしたことなんですけどね。

短歌の歌集を何冊か読んだことのある人なら分かるだろう(はい、ここから短歌の話です)。事実をすべて正確に記述して行くことと、表現することが一致するとは限らない。
短歌の先生が歌集を出されたときに話してくださったのだが、作品の配列は必ずしも発表順ではないという。時系列を考えながら連作などの順番を構成して一人の主人公の物語を作るという、そんな趣旨のお話だった。つまり、その人は自分をモデルにした<私>を主人公に、一冊の歌集を表現しきったのだろう、と理解した。
すべてを記録して表現するということは不可能で、どの事実を採用して時系列を組むかということも、表現の技法なのである。

一方で、『ボヘミアン・ラプソディ』については、BuzzFeed の Pier Dominguez が、マーキュリーのマイノリティ性の表現が不十分かつ不適切であることを指摘している。
私も、マーキュリーの元婚約者メアリー・オースティンとの関係がロマンチックに描かれすぎていることが気になった。オースティンはマーキュリーのアンドロジナスとしての魅力を開眼させ、ゲイとしての自認まで導いた上で身を引いて(史実とは違うらしい)、別れた後も良き友人として彼を見守り、ドラッグや見境のないセックスに溺れる彼を救おうとする人物として表現されている。つまり「ゲイに献身的に尽くしてくれる女性の友人」というイデアであり、ノンケ女としてはちょっとムズムズするのである。もちろんこれによって、ゲイに対する偏見が増長される恐れはある。
表現しようとするとき、事実を羅列するだけなんてことはできない。どの事実を採用し、時系列をどう組むか。そして、何を表現したか何を表現しなかったかで他者から批判を受けることは当然起こりうる。それは短歌であっても、結社誌に載せた一首の歌であっても同じことだろう。うん、無理やり短歌の話で落ち着けたぞ。

とはいえ、この映画は音楽が素晴らしく、ミュージカル映画としては最高だと思う。史実と異なると承知しながらも隣で見ていたクイーンファンである同居人は感動して泣いていたし、私のようなニワカでも楽しめた。子どもたちと観る人は、映画の後に1980年代のゲイの人々が置かれていた困難について話してあげてほしい。

(水甕 重吉知美)

順接の接続詞もて文章をつなぐがごとき生を拒みつ
佐竹游『草笛』(2014年 現代短歌社)

 昨年2017年の短歌研究新人賞は、その受賞者・小佐野彈が同性愛者だということでも耳目を集めた。その話題を聞いた時、私はもう一人の歌人を思い起こしていた。
 「佐竹游」は筆名かもしれないが、彼女は少なくとも歌壇においてはレズビアンであることを表明して短歌を制作するオープンリー・ゲイである。しかし、彼女が2014年に第一歌集を発表した時はその完成度の高さにもかかわらず、小佐野ほどの話題にはならなかったようだ。私自身もこの歌集を遅れて知ったとはいえ、そのことが正直言って不満である。確かに佐竹が総合誌の賞を取るなど華々しく目立つ行為を選んだわけではないから仕方がないが、マイノリティとしての経験をモチーフにした迫力は負けていないし、それでいて気品のある文体は多くの読者が模範とするはずだ。

うしろより双の乳房を手につつむ月の面をおほへるごとく

 同性の恋人と愛し合う性愛の歌はすごく眩しい(ネットスラングで言うと「尊い」)。そして、異性愛の女たちも、男の体をこんなふうに能動的に愛してみたいし、愛していいんだと気付かされる。

 冒頭の掲出歌は、「順接の接続詞」のような人生をきっぱりと拒んだ、という「私」の態度を示している。つまり、いわゆるノンケの女性としての表向き「順調な」人生、男に愛されて子どもを産んで育てる、という安定した人生を捨てて、彼女は自分自身の愛と生を選んだのである。この態度によって、彼女は同性の恋人との大切な時間を勝ち取った。冒頭の歌に、異性愛者の男性たちすらも自分の人生を見つめ直し、勇気付けられることがあるのではないだろうか。

いちまいの蜻蛉の羽根におほはれて世界はあをき五月となりぬ

 こんな軽やかな歌も歌える人だ。
(重吉知美)
 
☆ 結社誌『水甕』2018年2月号の一海美根による歌壇時評「当事者性をうたう」も併せてお読みください。(水甕社ホームページ http://mizugame100.web.fc2.com

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