水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

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服部真里子

わたくしが復讐と呼ぶきらめきが通り雨くぐり抜けて翡翠かわせみ pp.6
胸をながれる旨くて熱い黄金よ秋は冒瀆にはよい季節 pp.21
やがてそれが墓であったと気づくまで菜の花畑の彼方なるらい pp.57
さみどりの栞の紐を挟みこみやわらかに本を黙らせている pp.92
もう行くよ 弔旗とキリン愛しあう昼の光に君を残して pp.171

 服部真里子さんの第二歌集『遠くの敵や硝子を』(書肆侃侃房)を読んだ。第一歌集よりも難解で不穏な表現が多いように思う。なんだか服部さんが私たち読者に「もっとついてこいよ」と迫っているみたいで、彼女に煽られるように一気に読んだ。
 歌集評についてはネットや各誌にたくさん載っているだろうから、ここでは特に述べない。それよりも私たち歌人が彼女から盗めそうなテクニックについて考えてみたい。

 掲出歌に共通するのは、輝きや美しさを連想させる言葉の中にドキリとするようなネガティブな言葉が一語混ざっているという特徴である。<復讐>、<冒瀆>、<墓>、<黙らせている>、<弔旗>などをそうだとしてみよう。ここでは便宜的に「ダークワード」と呼んでみる。うわー中二病っぽい(私のネーミングセンスが)。
 ここで大事なのは、一首の中におけるダークワードの比重または役割である。一首めは、<きらめき>とそこから連想される<通り雨>の爽やかさ、<翡翠>という美しい鳥の名前に比して、<復讐>という言葉が荒々しく迫る。しかも<わたくし>が<きらめき>に対して<復讐>と名付けているのであり、このキラキラした風景はすべて<復讐>に彩られている、というカラクリだ。どうだ、三〇年遅れの中二病でなくても何度も読み返してしまうだろう。巻頭歌からこの調子だから凄い歌集だ(語彙力)。
 四首めはの四句めまでは割と穏当な言葉を配置しているが、結句で「(本を)<黙らせている>」というなんとなく暴力的なイメージを喚起させる。しかも、決して分かりやすい暴力ではなく、じわじわと怖がらせる、まさに「黙殺させる」主体としての「私」だ。通常、「本を眠らせている」としてしまいがちだが、それだと穏当でお上品な歌にしかならないだろう。
 五首めはもともと<弔旗>というダークワードがメインであるが、そこにいろいろと暗い言葉で飾ってしまうと<弔旗>のインパクトが弱まる。<キリン>、<昼の光>というあえて暗さを連想させない言葉を配置して、<君>への弔意をじんわりと感じさせるのである。そうして、初句と一字空けにこめられた悲しみを味わうことができる。本歌集はこれを巻末歌として締めている。
 自分の歌が歌会で「キラキラしすぎ」と評されたら、一語ぐらいダークワードをひねり出してはどうだろうか。逆に「暗すぎる」と言われたら明るい言葉を考えてみてもいい。それから推敲してみてもいいと思う。

 そうはいっても私は次の歌が大好きだ。ダークワードを駆使して心身ともに攻撃されやすい立場にいる誰かの、反撃の牙を表現している。

夜の雨 人の心を折るときは百合の花首ほど深く折る pp.62

 (水甕 重吉知美)

 服部真里子さんの第一歌集『行け広野へと』の記事はこちら。 
 

 巻頭歌
  三月の真っただ中を落ちてゆく雲雀、あるいは光の溺死 

 鳥を飼いたかったこともサンダルもなべて金星ほどの光点

 ひまわりの種をばらばらこぼしつつ笑って君は美しい崖

 

 生き急いでる印象を受けた。精一杯に生きている、と言うべきか。
 作者を取り巻く風景も人々も、またたく間に作者の脇を過ぎてゆく。明るく温かくなりはじめた三月。空高く舞い上がり縄張りを主張するための囀りののち、真っ逆さまに落ちる雲雀は、まさに光そのものであろう。強烈な印象を与えた光は、しかし雲雀もろとも「今」を溢れる光に溺れて、見えなくなる。手を伸ばせばすぐそこに老いがあり、その先には終末が見えている。だからこそ「今」は光に満ち溢れ、作者はその
にたくさんの光を掬い上げようとする。指の間から、漏れてしまったものたちへ思いを寄せる。そして、光が失われることを怖れて、はるか彼方、見ることのできない世界にまで手を伸ばそうとする。


  雪の日の観音開きの窓を開けあなたは誰へ放たれた鳥

  鶏肉がこわかった頃のわたくしに待ち合わせを告げてくれませんか

 けれど私は鳥の死を見たことがない 白い陶器を酢は満たしつつ   

 

 鳥は「今」を耀く光に、像とつかの間の生を与えた、云わば光の具現として作者を弄ぶ。
 観音開きと鳥との組み合わせに、胸肉(鳥の死)を連想するのは読み過ぎであろうか。作者は、〈鳥の死を見たことがない〉と言う。鳥は作者にとっての「今」、つまり作者自身の生きている時間へ直結するのであるから。生きるために必要な、飲食(おんじき)の準備として〈白い陶器を酢は満たしつつ〉あるのに。唐突に「けれど」で始まるあたり、解釈がややこしいが、まだ何色にも染まる可能性を持つ、白い陶器、硬質な、それでいて脆い器には、刺激に溢れた液体が、きらきらと「今」(作者が生きている時間)を集めている。鶏肉、つまり鳥の死がこわかった頃の作者には、「今」をわずかにでも引き延ばす約束が、慰めとなるであろう。 

  花降らす木犀の樹の下にいて来世は駅になれる気がする

 

〈なれる〉と言うからには、なりたいのであろう。しかし「駅になりたい」とはいかなることか。気になりながら読み進めると、駅がさまざまに詠われている。


  煌々と明るいこともまた駅のひとつの美質として冬の雨

  ジャンプと水だけ提げて晩秋のホームの端から端まで歩く

  終電ののちのホームに見上げれば月はスケートリンクの匂い

  駅前に立っている父 大きめの水玉のような気持ちで傍(そば)へ 

 

 暗く冷たい冬の雨の日にも駅は〈煌々と明るい〉。先のことなどあれこれ考えず「今」を楽しむだけの時間をゆっくり味わうにも適している。いつだってそこにあり(居て)、作者を迎え、送り出し、時に小さな喜びを与えてくれる。愛しい「今」をつかの間留め置く、そういうものに作者はなりたいのかもしれない。

 

  星が声もたないことの歓びを 今宵かがやくような浪費を

  逆さまにメニュー開いて差し出せばあす海に降る雨のあかるさ

 

チャーミングに、精一杯に「今」を楽しもうとするのは、歌集の根底を流れるキリスト教精神と関わりがあるのか。いや、もともとの性格と強い精神力かな。
                             (木村美和)
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