水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

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エッセイ

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(Photograph by Stephane Granzotto ; National Geographic)


巨岩群のごとく母らは立ち寝するマッコウクジラの海中保育
(『水甕』2019年8月号「マッコウクジラ」より)

 今年の3月にナショナルジオグラフィックの写真を見かけたとき、ヒャッホウゥゥ!!と気分がアガった。地球ってすごい!海ってすごい!!という小学生みたいなため息しか出ない。彼ら(というか彼女たち)の写真の顛末とその生態については、ナショジオの「集団で「立ち寝」をする巨大クジラ、熟睡中?(2017年8月)」をご参照あれ。
 写真は私を遠くに連れて行く。すなわち海の中、山の上、言語の異なる街、宇宙空間などに。この写真を撮った写真家は、プロとしてダイビング器材や撮影機材を駆使し、私たちをマッコウクジラのそばまで連れて来てくれた。こんな素晴らしい体験を短歌にできないかと一ヶ月ぐらい考えて、結社誌に投稿した。採用されて割と嬉しい。

 この頃、日本は「平成」の次の新元号を発表するとかで大騒ぎだった。

新元号に浮かれる土地の外側はマッコウクジラの生きる海原 (同)

(重吉知美)

このエッセイは、主に水甕社の会員に向けて書いています。

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 新しい加害者を出すな⑤私性とゲスい質問という記事がそこそこ読まれているようで、いい加減なことを書いてはいけないな、と身が引き締まる。読者の存在はとても嬉しい。問題なのは、読んでほしい水甕の会員にこのブログがさっぱり知られていないことである。
 それでもやはり今回も水甕の人宛てに、この記事の補足をもう少し試みてみたい。

 前回の記事を書いた時、私はなんとなく河野裕子(かわの・ゆうこ)さん(1946-2010)と永田和宏さん(1947-)を想起していた。私は彼らの熱心なワナビーではなかったが、知らない人のためにも説明を試みてみよう。彼らは二人とも歌人という夫婦で、しかも日本の専門歌壇では有名なビックカップルだった。さらに興味深いことに、彼らの子どもたち二人も短歌制作を続けており、総合誌などで活躍する有名歌人である。つまり、彼らの家は、親子二代に渡って若い頃から歌人としての業績を積んできた家族だった。
 ところが、河野さんはガンにかかってしまう。彼女は私生活を作品に投影することを重視する人だったようで、ガン罹病をオープンにした上で作歌を続けていた。そして2010年に亡くなった。
 同じ年に有名な歌人が実は何人か亡くなったのだが、河野裕子さんの死はなんというか違っていた。この年の水甕社の結社誌には、彼女への追悼歌がたくさん掲載されたのを記憶している。もちろん、私も含めて水甕の人たちには、河野さんご本人との面識などまったくない(はず)。河野さんカップルと子どもたちは「塔」という他の短歌結社の所属で、水甕とは無関係なのだから。それにもかかわらず、水甕の人たちは彼女の死を悼み、追悼歌を詠んだ。おそらく他の結社でも似たような現象があったと思う。特に、彼女と同世代の当時60代だった女性たちからのシンパシーはかなりのものだった。

 さて、問題はここからだ。水甕社の会員で、当時をよく知る人にきいてみたい。もし、永田和宏さんやお子さんたちと偶然対面した時に、亡くなった河野さんのことをズケズケと聞いていいものだろうか。彼女の病気のことや最期のこと、今の心境を聞いていいだろうか。
 答えは「No」だ。なぜなら、永田さんたちはこちらのことを知らないからだ。彼らにとって私たちは「知らない人」だ。
 しかし、私たちはおそらく間違えてしまう。目の前にいる人は、憧れの、親愛なる、その作品を通してその私生活をすっかり知っている(つもりになってしまっている)短歌作品の作者たちだ。うっかりするとやっちまう。だからこそ「相手が自分を知っているかどうか」でよく踏みとどまらなければならない。

 ばっかじゃん、そんなことするわけないじゃん、という人も、同じ結社の無名歌人である会員にはやっちまってしまっていないか。
 私が離婚したこと、給料が安いことなどを歌に詠んだとしても、それを対面できいてくるんじゃない(多分、奇声をあげながら威嚇してくる)。誰かが親を亡くしたこと、育児に悩んでいることを詠んだとしても、それを対面できくもんじゃない。自分が相手を知っていても、相手が自分の歌を全部じっくり読んで知ってくれているとは限らないからである。


(水甕 重吉知美)

野分のわきにも倒れなかったというピーマン刻めば猛暑が死にゆく匂い
左様さようなら夏よ胡瓜きゅうりをガリガリ喰い生姜しょうがおろして秋茄子あきなすを焼く
太陽と土の思い出の味がする平飼い卵のぶっかけごはん
考えて書くこと土を耕すこと命を育てて食べていくこと
草叢くさむらの緑のせていく初秋しょしゅう縷紅るこうの花はひっそり紅い    『水甕』2019年1月号


 愛知県知多半島の農園から野菜と卵を取り寄せている。給料日直後の月一回の楽しみだ。
 荷物の中には、写真や説明書きでいっぱいの農園だよりも入っている。自然災害や害虫との闘い、あるいは共存の様子に、思わず私も一喜一憂する。
 熱意のこもった文章を読んでいると、この人は農園だよりを書きながら考え、考えながら書き、また新たに有機農業への思いを強くするのだろうと感じた。私たちも短歌作品を書きながら考え、考えながら書いていこうではないか。

(水甕 重吉知美)


このエッセイは、主に水甕社の会員に向けて書いています。

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映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観たことはブログでも書いたが、クイーンのメンバーが新曲に関する記者会見を開く場面があった。そこで、記者たちはフレディ・マーキュリーのセクシュアリティに関して質問攻めにする。実際にそういう記者会見があったのかは知らないが、80年代における同性愛者への強烈な差別意識を考えると、マスコミが「ゲイ疑惑」を暴きたがったのは本当だろう。
マーキュリーがゲイであったこと、そして他の三人のメンバーたちがそれを承知していたことは、クイーンの作品にも大きく影響していたはずだ。しかし、彼らのプライバシーはもっと守られるべきだった。

シンガーソングライターと同様に、プライベートと作品が密接だと信じられている−−いわゆる<私性>重視の−−短歌表現の空間でも、似たような問題が起きやすい。
結社誌の作品を読むと、あの人には子どもがいて、孫が就職して、配偶者が亡くなって、そのあと親が亡くなって、自分が病気になって、ひ孫が生まれて‥などなど、プライベートがダダ漏れになっていることは多い。だから、全国大会などでお会いしたときに「あの歌の旦那様とは?」などいろいろと訊きたくなるだろうが、ちょっと待った!地雷かもしれんから気安くきかんほうがええで!!
特に若い人がセクシャルな歌を詠むと、気になって気になって仕方がなくて事情を訊きたくてしょうがなくなるだろう。でも、そこはぐっとガマンしよう。それが大人だ。訊いちゃったらそこで負け、セクハラですよ。ゲスい質問は絶対にしてはいけない。
歌と私生活は別、ということもある。そして、私生活から歌を作り上げたときでさえも、いや、そうだからこそ、対面では言って欲しくない、訊いて欲しくない、ということがある。性の歌ならその人の性はその歌がすべて、別れの歌ならその人の別れはその歌がすべてだ。
それと、個人的な感覚だが、過去を清算したつもりでもいろいろ訊かれて話しているうちに怒りが再燃することもあるので、気をつけたほうがいいと思う。久しぶりにお会いした先輩同人に離婚の事情を話しているうちに、先輩のお顔が小姑だった女性に見えてきてだんだんイライラしてきたことがある。

セクシュアリティを公開して歌集を編む歌人や、自身のセックスや身体を詠む女性歌人も増えてきた。だからといって、いや、だからこそ彼らのプライバシーや心は守られなければならない。面と向かって「あのエッチな歌の恋人とは、最近どう?」などとお訊きしてはいけないのだ、絶対に。

何も「表面的な付き合いに徹しろ」と言っているわけではない。信頼関係を築かないうちからズケズケとプライベートを訊くなと言っているのだ。しかし、私たちは有名歌人や同じ結社会員の歌を読むうちに、「自分がその人のことをよく知っていている」、信頼関係が既にあると一方的に勘違いしてしまう恐れがある。肝に銘じたい。特に男性会員や、年少者に対する年長の女性会員は気をつけられたし。

(水甕 重吉知美)

このエッセイは、主に水甕社の会員に向けて書いています。

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「若い人は」と言うな、とまでは言わない。が、軽々しく「若い人は」と発言した時に相手との分断を作ってるかもよ、という話。

私が短歌を始めて結社に入ったのは30代半ばだったが、短歌結社では60歳以下なんてのはくちばしの青いガキ、または小娘扱いである。だから仕方がないといえばそうなのだが、会話の流れや文脈によっては「お若いから」というフレーズから侮蔑や拒絶の意思を感じ取ることがあった。
そうした「若い人は」という年長者による分断フレーズについては、最近では短歌結社誌『塔』の短歌時評で濱松哲朗さんがたびたび採りあげて、冷静に明確に分析している。この人の9月号11月号の時評をお読みになれば、私が対面で「若い人は」と言われた時の、講演などで堂々と「今時の若い人の歌は」と印象で物申すバカ歌人を見た時の、モニョモニョする嫌な感じを共有していただけるだろう。
ちなみに短歌評論を書きたいと志願する人は、濱松さんの文章の書き方を参考にするといいと思う。抽象度はあるけど決して分かりにくいわけではなく、引用元をうやむやにせず、嘘を書かないように配慮したスタイルは、評論と呼ぶに相応しい。

さて、そういう私も45歳になり、20代30代の人よりはるかに年長者になった。先に言っておくが「ババア」と呼ぶ奴は◯す。
彼らからはともかく、私から見れば彼らは「若い」。だが、その年齢層の若さを指摘することで分断以外の何が得られるだろうか。自分が排除されてきたルサンチマンを誰かにぶつけるなんていうサイクルは、結社を確実に滅ぼす。例えば、自分が若い頃に担わされた役を年少者に「誰もが通るから」と押し付けてはいけない。それよりは雑誌のページを任せた方がはるかに若手が育つやすいだろう。「ルサンチマンを忘れる」テクニック、「ルサンチマンを他の誰かにぶつけない」テクニックを身につけるべき時期に、私もいるのである。

(水甕 重吉知美)

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