水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

このブログで、共に短歌を学び、短歌で遊べたら幸せです。
宜しくお願いします。

《このブログでやりたいこと》
①ネット歌会 ~どなたでもお気軽にご参加下さい!第三回水媒花歌会は、詳細の決まり次第ブログで告知します。
②学びの共有 ~研究発表、短歌イベント参加レポート、読んだ歌集の感想など~
③交流    ~告知やちょっとした日常風景、作品など~
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一首鑑賞

  ほうたるのふたつみつつと火をともしみなづきの夜の水音を消す
植松法子『かたじけなくも』(2018年 本阿弥書店)

 このタイトルなのにいきなりだが、私自身は新仮名(現代仮名遣い)で短歌を創作している。そして死ぬか短歌をやめる日まで、旧仮名(歴史的仮名遣い)に切り替えるつもりは絶対にない。その主な理由は、旧仮名歌人たちによる仮名遣いのミスの多さにある。総合誌掲載作品にだってミスが見つかることがある。旧仮名を完璧に使いこなすのは、ベテランの歌人にすら難しいのである。

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黒き津波われを襲ひくる心地してテレビの前に強張りてをり
作田清江(秋葉四郎編『平成大震災』2013年 いりの舎)

 短歌結社「歩道」はアンソロジーとして歌集『平成大震災』を発行している。東北在住の会員たちによる作品はもちろんのこと、その他の地域やアメリカ在住の会員たちの作品も収録している。
 掲出歌は東京在住の作者による。東京は遠いから関係ないとか、いや死者も出ているし計画停電はあるしやはり被災地だとか、お腹いっぱいになるような混乱が起きていたが、「津波映像の恐怖」という点においては国内外の多くの人が共通して体感したのではないだろうか。
 視覚からの情報は強烈である。津波の映像を見た「私」は怯え、しかし逃げることもできず、まるで黒い津波に捉えられてしまった人のように動けなくなり「強張(こはば)」ってしまう。整いつつ過不足なく内容を伝えている歌だ。この作者は映像を見たことで心身に不調をきたさなかっただろうか、それだけが心配である。

 『平成大震災』を読んでいて気づいたのは、人はメディアでの見聞を詠もうとするということ、そしてそれは案外、作品として成立しているということだった。掲出歌を私たちが理解できるように、メディア体験もまた体験、メディアを通して被災したこともある種の被災体験と言えるのである。
 そして一方で、東北在住会員たちによる直接的な被災体験の歌が生々しく迫る。特に巻頭の中村とき(岩手在住)による連作「巨大津波」は、津波による死の恐怖という題材と、それに負けていない技術が光っている。

(重吉知美)

順接の接続詞もて文章をつなぐがごとき生を拒みつ
佐竹游『草笛』(2014年 現代短歌社)

 昨年2017年の短歌研究新人賞は、その受賞者・小佐野彈が同性愛者だということでも耳目を集めた。その話題を聞いた時、私はもう一人の歌人を思い起こしていた。
 「佐竹游」は筆名かもしれないが、彼女は少なくとも歌壇においてはレズビアンであることを表明して短歌を制作するオープンリー・ゲイである。しかし、彼女が2014年に第一歌集を発表した時はその完成度の高さにもかかわらず、小佐野ほどの話題にはならなかったようだ。私自身もこの歌集を遅れて知ったとはいえ、そのことが正直言って不満である。確かに佐竹が総合誌の賞を取るなど華々しく目立つ行為を選んだわけではないから仕方がないが、マイノリティとしての経験をモチーフにした迫力は負けていないし、それでいて気品のある文体は多くの読者が模範とするはずだ。

うしろより双の乳房を手につつむ月の面をおほへるごとく

 同性の恋人と愛し合う性愛の歌はすごく眩しい(ネットスラングで言うと「尊い」)。そして、異性愛の女たちも、男の体をこんなふうに能動的に愛してみたいし、愛していいんだと気付かされる。

 冒頭の掲出歌は、「順接の接続詞」のような人生をきっぱりと拒んだ、という「私」の態度を示している。つまり、いわゆるノンケの女性としての表向き「順調な」人生、男に愛されて子どもを産んで育てる、という安定した人生を捨てて、彼女は自分自身の愛と生を選んだのである。この態度によって、彼女は同性の恋人との大切な時間を勝ち取った。冒頭の歌に、異性愛者の男性たちすらも自分の人生を見つめ直し、勇気付けられることがあるのではないだろうか。

いちまいの蜻蛉の羽根におほはれて世界はあをき五月となりぬ

 こんな軽やかな歌も歌える人だ。
(重吉知美)
 
☆ 結社誌『水甕』2018年2月号の一海美根による歌壇時評「当事者性をうたう」も併せてお読みください。(水甕社ホームページ http://mizugame100.web.fc2.com

野牡丹のわが足元にはらり落つ寄り添ふ孫の赤きペディキュア
田中昭子 『水甕 ふくおか』No.2 (2017年)

野牡丹野牡丹

 孫の歌は避けた方がいいという話をよく聞く。
 だが、そうなのだろうか。本当に孫の歌は詠んではいけないのだろうか。よく考えてみてほしい。「孫」がいるのは稀有なことである。平凡なことではない。子どもを産まず、養子を育てる経済力のない私にはきっと孫もできないだろう。そんな甲斐性無しの娘を持った私の母に、結果的に孫などいない。自分とその子どもがどうにかうまく繁殖しないと(あるいは子になる人に出会わないと)「孫」がいるということはなかなか実現しないのだ。ましてや孫と仲が良ければこんな僥倖はない。
 ただし、孫がいることは割合としては稀有なはずだが、その経験者数は少なくない。もし孫の短歌を詠みたいなら、他の人たちとは違う自分の経験のオリジナリティをどう打ち出すかだ。
 掲出歌の眼目は、何と言っても結句(けっく)の「赤きペディキュア」である。サンダルなどからむき出しの指先に映える真っ赤なペディキュアだろう。野牡丹は紫色のようだが、「私」の足元に落ちた花びらの色とペディキュアの色が鮮やかに想像される。
 そもそもこの「孫」はどんな人なのだろう。成人した女性(多分)、普段から華やかな格好を好む人、「私」に寄り添ってくれるほど住居かあるいは心理的な距離が近い人、ばあちゃん孝行の優しい人。この一首で、孫の人物像や孫と「私」との関係性がくっきりとして読者は作者が羨ましくなるだろう。それも「赤きペディキュア」という語の選択が、孫の歌としては平凡ではない語がいいからなのだ。

(重吉知美)

件名は「訃報」の二文字 ひらいても閉じても消えない訃報の二文字
岸原さや歌集『声、あるいは音のような』(2013年 書肆侃侃房)

 短歌を作り始めた人の中には「空白(スペース)」の使い方がよく分からない、ということがある。どの作品にも必ず一字空白を使ってみたり、上句(かみのく)と下句(しものく)の間に必ず入れてみたり。時には各句の間に全て空白を入れてみたりする人もいる。この場合、掲出歌で例えると、「件名は 「訃報」の二文字 ひらいても 閉じても消えない 訃報の二文字」みたいになる。「ここに空白を入れないと文字が重なって読みにくいのではないかしら」などと心配する気持ちは分かるのだが、大丈夫、そういう空白はかえって読みにくいから。

 掲出歌の空白はこの一首の中で必然的で、むしろなくてはならない空白である。おそらくケータイかパソコンのメールで受け取ったメールなのだろう。「訃報」という件名と、その詳細を一応目にするが、驚いて思わず画面を(ケータイを)閉じてしまったのだろう。そしてもう一度念のために見直すが、訃報の二文字は残酷にも「消えない」。
 この一文字分の空白は「私」の受けた衝撃や訃報を信じたくない気持ちなどの感情的な混乱、一旦受け取ったメールを閉じてまた開いた時の時間的空白などを暗示しており、たったこれだけの空白が複数の要素を意味して歌に奥行きを持たせるのである。
 この歌には笹井宏之(1982-2009)の訃報であることを示す詞書が付いていて、連作の一首めとして機能している。が、一首としても成立しており、読者の中には自分の体験を引き出して共感する人たちも多いだろう。それにはやはりこの一字空白が効果的に使われていることが大きい。

 空白を用いるならば、その一首の中でどのくらい必要か、その位置でいいのか、どういう意味をもたせたいのかなどをよく考えてみるといい。

(重吉知美)

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