水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

このブログで、共に短歌を学び、短歌で遊べたら幸せです。
宜しくお願いします。

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一首鑑賞

逢ふたびにかすかほのめく火蛋白石オパールの移ろふ色にほだされてゐる
 田上純弥
(「The Phantom Rose Quartz」『鉱物短歌企画Vein』2018年5月6日 )

 5月30日の水甕全国大会では、加藤直美・木村美和と共に「短歌の詩性〜創作のヒントとして〜」と題して座談会を行なった。詩性の話をする木村さん加藤さんの前座として、私は「情報検索の案内」と称して「辞書と新聞と図書館とネットを活用しよう」という話をした。情報の収集や事実確認は、詩性を打ち出す以前のレベルだからだ。
 掲載歌はネットプリントで配信されていた、「鉱物」をテーマにしたユニークなアンソロジーから引いた。オパールという無生物を、魅力的な存在として擬人化している。和名にルビを振る衒学的なスタイルに旧仮名がよく似合う。この後に続く五首もヘリオライトやアクアマリンといった鉱物をモチーフにして、文体を揃えて連作として構成している。そして、英語のタイトルを添え、短いながらも貫徹した独自の美を示す。
 アンソロジーの散文のページでは、作者は参考書籍を挙げていた。それによると漫画『百年結晶目録』(青井秋)、小説『鉱石倶楽部』(長野まゆみ)、『ときめく鉱物図鑑』(山と渓谷社)、『美しい鉱物』(学研)であるという。おそらく普段から多くの書籍に触れている人なのだろうが、テーマを得たら本を読むという姿勢を自分は見習うべきだと感じた。後の二冊のような図鑑や解説本は公共図書館で借りられるはずである。私の地元の図書館を検索したら、例えば『世界一楽しい遊べる鉱物図鑑 』(さとうかよこ)や『よくわかる岩石・鉱物図鑑』(監修・円城寺守)などは借りられることが分かった。本を読めば短歌がすぐにできるというわけではないが、知識は短歌の邪魔にはならない。
 作者は短歌結社・未来の若い歌人。座談会では時間の都合でこの作品を紹介しなかったが、水甕社の人たちに向けて、他結社の人のこういう努力と詩性をきちんと示しておくべきだったと少し後悔している。

(水甕 重吉知美)

蘭ちゃんは人なつっこい犬だっただったは過去形さみしい私
高岡真大(たかおか・まひろ)2018年2月号『水甕』

 短歌結社・水甕には、小中学生の会員もいる。中学生の高岡真大さんは、小学生の頃から結社誌の常連だ。家族との会話や学校での出来事の歌を大人の仲間たちが微笑ましく読んでいたが、2月号の「あの日あの時」コーナーに寄せたエッセイでは少し様子が違っていた。愛犬の闘病の末の最期について綴り、四首の挽歌を添えていたのだ。掲出歌はそのうちの一首である。
 犬と生きたことのない私でも、看取った時の記述は胸が詰まる。その短いエッセイの終盤に、彼女はこう記している。

蘭の歌は亡くした時のものばかりだ。どうしてだろう。
元気な時のをどうして詠まなかったのだろう。

 歌人の中には「不幸な歌の方が面白い」という人が時々いる。それは「他人の不幸は蜜の味」という不道徳な心理によるものであったり、悲しい歌の方が共感し理解しやすいとか選歌しやすいというものであったり、大抵は読者の都合として語られていることが多いように感じる。
 対して、高岡さんは短歌の制作を続けてきた者としての自問を示している。なぜ、別れてしまった後のさみしい歌ばかり詠むのだろう。悲しみや不幸を歌わずにはいられない歌人たちが、共通に抱えている疑問だ。この問いに続けて、彼女はこの一文でエッセイを終える。

あの日あの時私も家族も蘭もみんなが幸せだったのだ。

 幸せの記憶が挽歌の動機となるのかもしれない。

(重吉 知美) 

  みどりより金色がいいに決まってる平凡な日に添えるキウイは
香村かな(『果実短歌〜空き瓶歌会有志による折本〜』2018年5月)


 この歌がいいのは〈平凡な日に〉という語があるからだ。「特別な日に」ではない。金色に輝く果肉のゴールドキウイは、「私」にとって普通の緑のキウイより特別な感じがするのだろう。いつもの〈平凡な日〉の食卓だからこそ、明るい色の甘いフルーツを。「特別な日に」としていたら、この歌自体は平凡になったかもしれない。

  なにごともないといふ日のうつくしさタルト・オ・フリュイを買つてかへりぬ
有村桔梗(同)

 この歌も、何事もない日にタルト・オ・フリュイ(フルーツのタルト)を買うという、それだけの歌だ。だが、〈なにごともないといふ日〉が美しい、と言い切っているのが面白い。そんな「私」が買うのは、きっと色とりどりの果実を盛られた華やかなタルト・オ・フリュイなのだ。オレンジと真っ赤ないちご、食感も楽しいブルーベリーは外せない。

 空き瓶歌会は、新潟に地盤を置いている非結社的な集まりの歌会。コンビニのネットプリントで配布中の歌誌を手にいれた。5人の歌人が「果物」をテーマに連作を発表した。
 セブンイレブンのネットプリントで今月14日まで配信している。
 

(重吉 知美)

ヨーソロー!と大声だしてみたかった 泣き顔みたいな雲を見上げる
                      江戸雪「抱擁」

よう そろ [1] 【宜・良候

〔「よろしくそうろう」の転〕
転舵のあと,船が今向いている方向へ,または指示された方向直進せよという言葉。 「一五度-」
「よろしい」の意で船乗りが用いる語。また,囃子詞はやしことば
(https://www.weblio.jp/content/ようそろ)

1首だけで読むと、場面が幾つか想定される。相聞のようにも読めるし、あまり主張することのなかった自身を振り返る場面とも読めよう。
しかしフェミニズムの色濃い本連作中にこの歌を読むとき、作者の中に在る男性性と女性性とが絡み合う心の叫びとして、鮮やかに一首が立ち上がる。
「ヨーソロー!」と大声を出すことは、ついに叶わず、〈だしてみたかった〉という仮名表記の優しさで空を見上げる。諦念と慈しみが混ざる表情で、空を見上げる作者。                                               
うつろいやすく、あまりにも儚い雲に己を投影した〈泣き顔みたいな〉作者の顔が目に浮かんだ。

                             (木村美和)

遅ればせながら「ぱらぷりゅい」を、読ませていただきました。
歌友曰く、読みごたえがあり、特に歌会が面白いとのこと。
本当でした~。
そのおばちゃんパワーや、ボケと突っ込み的な掛け合いは、(ごめんなさい)、
短歌に興味がなくても笑えてしまいそうです。
言うまでもなく、その中に在る読みの鋭さや深さがあってこその面白さです。
ルポルタージュの良さのおかげで、臨場感を持って堪能できました。

作品の頁は、それぞれの個性が際立ち、繰り返し読ませていただきました。
惹かれた歌を少し紹介します。

  入り口はどこだったのか持ってきた水を分けあう春日野墓苑 
                       岩尾淳子「あかるい耳」

やわらかな春の日差しに包まれて、広い静かな墓苑にいる。
同じような墓石の立ち並ぶなか、作者は来た道を見失うが、それほど困るふうでもない口調で、のんびり水を分け合っている。春日野墓苑という固有名詞も、情景を引き立てる。
余分な情報が省かれていることで、一つ一つの語に表面的な意味以上のイメージが広がる。
〈入り口〉は、墓苑の入り口であろうが、彼岸此岸、夢うつつ、などの抽象的なイメージも浮かぶ。近年、墓じまいの話題なども聞かれ、埋葬の在り方もさまざまであり、私も死後は海にまいてくれれば……などという感覚だが、この歌を読んでいると、死者と静かに交信する場として墓石の立ち並ぶ墓苑をとても温かく感じる。〈水を分けあう〉は、飲料水か、或いは墓を洗うためのものか。生命に直結する〈水〉を、共に来た誰か、または死者と分け合う行為は、作者の今日まで繋がる生命への祈りのようにも思われた。

                         (木村美和) 


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