水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

このブログで、共に短歌を学び、短歌で遊べたら幸せです。
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一首鑑賞

かさなりてうち重なりて大空に花火は重き音をともなふ 三崎澪

角川『短歌』2018年10月号、「花火」より。花火を視覚ではなく聴覚で捉えている。しかもその音は「重い」という。腹の底に響くような大きな音なのだろう。
<かさなりて>、そして<うち重なりて>と続ける言葉のリズムが、なるべく切れることなく打ち上げられ続ける花火の様子をしっかり示している。ひらがなと漢字の使い分けも参考にしたい。

二尺玉三尺玉のひろがれば遠のくものの音のさびしさ

花火が拡大して消滅することを<遠のく>と見た。七首で構成された連作だが、花火をテーマにしているのに、どこか寂しげなのが印象的であった。

(水甕 重吉知美)



 

危険極まりない街といふ通信用基地はまつさきに攻撃される 外塚喬

加藤直美さんが沖縄旅行という。沖縄:水媒花
きれいな海と基地の町、それが初日の印象だった。  
こういう感想が真っ先に出てくるあたりは、社会派に関心のある彼女らしい。

日本の領土で米軍基地を一番広く抱えているのは沖縄だが、本土にも多くの米軍基地がある。私の住む西多摩地域には、福生市中心に複数の自治体の土地を米空軍の横田基地が占めている。
今年に入ってからオスプレイが飛ぶようになった。横田基地では毎年「日米友好祭」を開き、一般人に基地の一部を公開するのだが、今年の友好祭ではオスプレイを堂々と展示していてその厚かましさに萎えた。

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(写真は横田基地の塀。写真素材 足成より。撮影者、いしだひでオ氏。)


掲出歌は角川『短歌』2018年10月号、外塚喬「敗戦国は日本」から。米軍所沢通信基地にも7月にオスプレイが確認された。その時の恐怖を詠んでいる。

所沢市民を恐怖のどん底におちいらせオスプレイの飛び立つ 同

連作の最後の一首。下句が<オスプレイ>のところで句またがりになっている。平易な言葉だけを使用した上に、ちょっと読みにくい句またがりなので、最初の一読では舌足らずの幼稚な印象を持つかもしれない。しかし、この句またがりが言いようのない不安をザワザワと掻き立て、読後感に影響を与える。

(水甕 重吉知美)

結社誌『水甕』11月号が届いた。小学生会員の「水しぶき」欄と中学生会員の「飛び魚」欄を読む。

なっとうはねばねばしててちょっとへんとてもおいしいうれしいな 丸山史華(10歳)

<ちょっとへん>なんだけど、<とてもおいしい>。うんうん、そういうことってあるよね。

夏休みワクワクしちゃうしょ日からママとペディキュアぬったんだよね 大川野花(7歳)

<しょ日>は「初日」。へー、今の小学生は親公認でペディキュア塗っちゃうのか。私は子無しなので、この欄から子どもたちの「今」が垣間見えるのも面白い。どんな色だったのだろう。

汗かいてよてよてしながら草むしりまるでどっかのゾンビみたいだ 木村日香理(10歳)

<よてよて>というオノマトペが面白い。「よちよち」としてしまうところを、考えてみたのだろうか。<どっかの>という砕けた口語がマッチしている。日香理さんは、このブログ管理人・木村美和さんのお嬢さん。

色白は七難かくすと言い祖母は真っ黒な顔なでようとした 高岡真大(中2)

お祖母さまは孫娘の日焼けを気にしているようだ。<なでようとした>とあるが、もしかしたら孫は祖母の手を拒絶したのかもしれない。顔のことを言われるのは、家族からでもあまり気持ちのいいものではない。そんな葛藤をさらりと詠むようになった彼女の成長に驚く。

パッと咲きちらちら落ちてゆく花火少し大人になったと思う 高岡真大


(水甕 重吉知美)

哀しさ悔しさ寂しさ愛しさのどれを選ぼう 雲が過ぎてく
雨虎俊寛
(「糖菓<こんふぇいと>」第二巻 2018年5月27日)

 掲出歌は、ネットプリントで「花のあと」という表題で発表された六首のうちの最後の一首。他の歌がツイッターでよく紹介されているので、私はこの歌を紹介してみたい。
 きちんと31音あるのだが、五七五七七に語がはまらない。「かなしさ・く/やしさ・さびしさ/いとしさの/どれをえらぼう/ くもがすぎてく」と読むのだろうか。私は、「哀しさ/悔しさ/寂しさ/愛しさの/どれを選ぼう/ 雲が過ぎてく」と、4・4・4・5・7・7の6音節で読む方が好みだ。
 私なら結句を「過ぎ行く」としてしまうところを、作者は<過ぎてく>と砕けた口語調にし、独り言めいた雰囲気を出している。
 そして、感情を表す語を四つも並べているが、問題は<どれを選ぼう>にかかっていることである。この歌を眺めていて、私はふと、これらの感情がすべて出揃ってしまう状況がここにはあったのではないか、と感じた。おそらく作者(あるいは主人公)には、どの語も選べないのである。連作としては相聞歌と読むのが「正解」だろうが、悲哀と悔恨と寂寥と愛惜が同時に感じられることは、人生においてしばしば起こりうる。その意味では、この歌は一首として味わうこともできる。

(水甕 重吉知美)

五十年つながず過ぎし夫の手の麻痺するをとり花のもと行く
藤田正代(『幻桃』2018年7月号)


 あるご縁で短歌結社・幻桃の結社誌7月号をご恵投いただいた。全国大会の特集が組まれ、その歌会や黒瀬珂瀾氏の招待講演が記録されている。荻原裕幸氏の連載や会員のエッセイなど、散文も充実している。特に、各地域の歌会の記録がしっかり報告されていて、歌会に力を入れている結社だと感じた。自分の所属以外の結社誌を読むのは良い刺激である。
 掲出歌はテーマを持つ連作十首の最後の一首。連作の中で重要な意味を持つが、一首取り出して読んでもその意味は十分に理解できるだろう。夫の突然の麻痺がきっかけで、おそらく初めて手を繋いだという夫婦。彼女が彼の手を取るのはもちろん介助の為なのだが、二人は何を思っただろう。気恥ずかしいか、それとももっと早く手を繋いでいればと後悔したか。彼の方はそれどころではないかもしれないが、連作を通して読むと彼女の存在が彼の麻痺による心細さを支えているのが分かる。

泥のやうに目覚めてをれば麻痺の手を冷たくわれに重ねてきたり
藤田正代

 私は十年足らずで結婚生活を終わらせた。これからパートナーができても、五十年も一緒にいられることはないだろう。だからこそ、この二人には、リハビリが成功した後ももっとずっと長く手を繋いでいられるようにと願う。

 他に、気になった作品を挙げてみる。
首もとのネッカチーフは赤だったモノクロ写真の母が微笑む  岩崎勢津子
だいぢやうぶオーレリアンの庭の樹の葉うらにねむるよ蛹になつて  太田美千子
雨上がりの陸橋越えて畦道をどうもどうもと軽トラが行く  江口美由紀
鳥は雲になって畑のあぜ道に重いあたまの水仙あまた  豊増美晴
柴犬と駆けし堤にけふひとつ白きたんぽぽ風にそよげり  棚橋和恵


(水甕 重吉知美)

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