水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

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一首鑑賞

残しのなき人生をとそんなこと死はいつだって人生の途上
久保みどり『鳥と暮らす』(角川書店、2018年)

 この歌集を読んでいる頃に、大勢の人が死傷した放火事件のニュースを聞いた。この歌はもちろん昨年より以前に詠まれたものだし、事件を予言したわけではないが、妙にドキリとした。
 私の住んでいる地域から近いところでは、三年前に障害者用施設でテロが起きて19人が亡くなった。海の向こうの国では、学校やお祭り会場で銃が乱射される事件が頻繁に起きている。そうした事件でなくても、つまりニュースにならないような事故や病気によってでも、自分や誰かの死は<人生の途上>にやってくる。
 若年でなくったって、平均寿命をはるかに超えていたって、あなたがいなくなれば、それは<いつだって人生の途上>のこと。

(重吉 知美) 

 最近、二冊の歌集を読んだ。

後藤さん殺害のニュースにNHK日曜のど自慢十五分遅る
  久保みどり『鳥と暮らす』(角川書店、2018年)

二〇一五年二月
オレンジの服着せられし人の下ちいさくならぶ平凡な死は
吉川宏志『石蓮花』(書肆侃侃房、2019年)

 二人が同じ事件を詠んでいる。2015年、イスラーム過激派のISILが二人の日本人を殺害した事件だ。このうちの一人はジャーナリストの後藤健二さんだった。それぞれ事件の時に詠んだ歌を、歌集に編み込んだのだろう。
 久保さんの作品を読んだ時、最初はさっと読み飛ばしたが、後からじわじわと怖くなってきた。NHKの人気番組の放送開始が15分遅れるほどの大ニュースだった、という歌だ。と、最初は理解していた。
 でも、待てよ?邦人がテロ組織に無残に殺されたんだよ?え?待って、『のど自慢』を遅らせただけ?それだけ?え?
 つまり、この歌は「ジャーナリズムが娯楽番組を報道よりも優先させた」という事実をすらっと書いている。それが分かると、この国の空気自体が急に怖くなってしまう。

 吉川さんはISILがインターネットに公開した動画を見たのだろうか(私は見ないことにしている)。その映像の下に人質たちが亡くなったことが記されているのだろうか。
 結句の<平凡な死は>は意見が分かれるだろう。海外で拉致されて「処刑」されるなんて死に方が<平凡>な訳が無い。死ぬことそのものは誰にも訪れる<平凡な>現象だ。だが、死というものの普遍性ゆえに「処刑」してその様子を全世界に見せびらかすという行為の異常性が際立ってくる。そして、読後には人質たちが着せられた囚人服の<オレンジ色>が、脳裏に不気味に染み付いてしまう。

 時事詠は「すぐに古くなる」としてあまり詠みたがらない人がいる。しかし、こうして歌集に編んでまた誰かに読んでもらうと、「あ!そんな事件あった!」と思い出して真剣に鑑賞される可能性だってある。少なくとも読者としての私はそうだ。古くなるなんて言わないで、詠みたい時事詠を詠んでくれ。

(重吉 知美)

 ブログメンバーの加藤直美さんが昨秋、第一歌集を出された。水甕賞受賞経験があり、作歌力は十分で、待望の歌集だ。
 既に本人からの紹介、ご寄稿による歌集評もある。

金の環 歌集出版のお知らせ
成人の日 歌集からの作品紹介
『金の環』 の歌評をいただきました! 枝豆みどりさんご寄稿


 私からは、まずは震災について詠んだ歌を紹介したい。

新学期の子の教科書に一行の史実となりて〈震災〉がある pp.77

 1995年の阪神・淡路大震災か、2011年の東日本大震災か。教科書に(おそらく社会科か日本史のそれに)表記されているのだろうか。教科書に載るということは、死傷者が多かったということ、損害が大きかったということ、その後の社会への影響が深刻だったということだ。だが、それらの詳細は省略され、<一行>にまとめられる。他の史実と同様、重要なことだが簡潔な表現で示されるのだろう。

ライラックの便りとともに地震なゐふりし地より答案戻り始める pp.89

貌見るなきボーロのやうなひらがなが囁く「じしんはこわかったです」 pp.90

 職業詠の連作より二首。通信教育の添削の仕事のようだ。ライラックが咲くのは4月以降だというから、2011年東日本大震災の被災児たちと思われる。お互いの顔を知ることのない、文字だけでやり取りする関係。<ボーロのやうなひらがな>を書く子は、作者の馴染みの(ただし対面する機会のない)児童かもしれない。丸っこい文字か、またはタマゴボーロのようにふわふわした文字か。すべてひらがなで書くぐらいだから小学校低学年だろうか。「じしんはこわかったです」と自分の恐怖を頑張って言語化した健気さに胸が痛む。

潮の香が川上がり来る雨の前ここにも津波が来るといふこと pp.132

 加藤さんは確実に「あった」事実として震災を詠む。ある災害に関して、そこで被災しなかった者の多くは記録を読み、話を聞くことで震災を追体験していく。本歌集の「震災詠」を読んで、私個人の震災追体験はどうあるべきだろうかと考えた。

(水甕 重吉知美)

 昨年の8月の記事で藤田正代さんの作品を鑑賞した。その後、ご本人から第一歌集をいただいて恐縮していたところに、11月に発行されたばかりの第二歌集『冬薔薇』までご恵投いただいてしまい、恐縮しすぎて剥いた目が塞がらない(そんな慣用句はない)。
 先にいただいた歌集のご紹介がまだだが、やはり最新歌集の話をしよう。

 歌集タイトルの「冬薔薇」には奥付けには「ふゆさうび」とルビがふってある。ただし、藤田さんは旧仮名遣いなので、「さうび」は「そうび」と読む。「ふゆそうび」と読んで、意味は字のごとく冬のバラのことだ。
 この歌集は「冬薔薇」のモチーフが冒頭と巻末に出てくる。

冬さうび蕾のままの寂しさは追つて行けないうしろでに似て pp.12
散りどきを見定めて切る冬薔薇死にぎはと言ふきはを思ひぬ pp.13
冬薔薇うぶ着のやうな花びらをそらして咲けり転院の朝 pp.198
しみじみと語ることなく逝かしめて写真の母に飾る冬薔薇 pp.200
いまここがわたしの居場所冬バラの咲きたる庭に朝の陽は差す pp.203

 共通するのは、これらの薔薇の具体的な色がほとんど示されていないという特徴である。「冬薔薇」は辞書では文字通り「冬の薔薇」という意味であるし、画像検索すると濃い赤色や薄いピンク、黄色など様々な色があるようだ。そうなると、もう少し記述してほしいという批判もありうる。どんな色かによって、歌の印象が変わりうるからだ。色を明らかにしないのは、読者に好きな色を想像してほしいという狙いがあるのかもしれない。
 一方、形については表現を心がけているように読める。<蕾>の状態を<うしろでに似て>寂しいと言う。<散りどきを>見定めて切るというのは要するに萎みかかっているのだろう。三首めの冬薔薇は咲いたばかりなのだろうか、<うぶ着のやうな花びらをそらして>いる。最後の歌は朝日が差して冬の薔薇が咲く庭が自分の居場所だという決意のような、希望のような作品で、これを巻末歌として配置しているのが象徴的だ。しかし、ここでも薔薇の花の色については触れていない。庭にたくさん咲かせていて、色とりどりなのだろう。
 歌集タイトルにするくらいだから冬薔薇がお好きなのだろう。他にも草花の歌がたくさん出てくる。私は自然の歌が苦手なので、参考にしながら読ませていただいた。

(水甕 重吉知美)

  わが意思にかかはりもなき樹々の群みどりを重ね日々に明るむ   萱野博道

樹々の明るさ、力強さと内面のかげりの対比がさらりと詠まれていて惹かれる。

  木のベンチ取り外されて一人ずつの椅子が列びぬ駅のホームに   諸井敦子

読者がそれぞれに持っている木のベンチをめぐる思い出を、なつかしく感じさせてくれる。
 
  巌の穴に頭(づ)をさしこめば臭ひたつ二〇〇〇年余を培かふ黴か   太田美千子

思わず顔をしかめてしまうような臭いや湿気をリアルに感じる。

他にも気になった歌をいくつか引いてみる。
  くさめひとつひとりの部屋に吸ひこまれ夜の静寂のさらに深まる   藤田正代
  さうなのと聞かれて困るさうならばさうなんでせうさうしときませう   篠田理恵
  故郷の図書館南向きのテラス今もふたりの空気ふくらむ   豊増美晴
                                 (幻桃 江口美由紀)


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