水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

このブログで、共に短歌を学び、短歌で遊べたら幸せです。
宜しくお願いします。

《このブログでやりたいこと》
①ネット歌会 ~どなたでもお気軽にご参加下さい!第三回水媒花歌会は、詳細の決まり次第ブログで告知します。
②学びの共有 ~研究発表、短歌イベント参加レポート、読んだ歌集の感想など~
③交流    ~告知やちょっとした日常風景、作品など~
      寄稿受付 kimuramiwa11☆gmail.com (☆を@に変えてください)
             ※原稿料はお支払いできません。

歌集

85()愛知県豊橋市豊橋商工会議所に於いて、田村昌子『せんにちこう』、丹羽智子『牟呂町字作神』の、「二歌集を読む会」が行われました。パネラーは、小塩卓哉氏()、春日いづみ氏(水甕)、清水正人氏(水甕)。各地より約100名の歌友が集い、互いの読みを深める充実のひとときとなりました。一部、紹介します。

 

『せんにちこう』について。

・音調をストイックに守り、一字空けもせず、視覚でとらえるリズムも守りながら、七七を、四三三四と刻むなど、単調にならないよう工夫された様子が見て取れる。(小塩)

・身辺を素材にしたものは「表現」をせねば日記になってしまう。ひそかに用いられる技法の数々。時間の往還。(春日)

・長い歌歴を持つ歌人が一冊にまとめる時の構成の難しさ。いかに捨てるか、また掘り起こすか。(清水)

 

『牟呂町字作神』について。

・地名をタイトルにした歌集は、なかなか無い。地名は歌枕であり、『牟呂町字作神』も作者にとって言葉の力を持った歌枕である。(小塩)

・連作や一冊を通して作者が見えてくる。本歌集は、一冊の連作である。(春日)

・田村氏丹羽氏両名が、意識するともせざるとも現れる、榛名貢先生(水甕)の教え。①具体があること、②(言葉の、事柄の)続き柄を新しくすること、③爪先立って我慢すること(エリオット:「表現とは爪先立って我慢すること」)(清水)

(水甕岡崎支社 木村美和)


4253073939_da63d5be1b_o

 第一歌集『
のゐどころ』(筑紫歌壇賞受賞)以来十年間の作品三一六首を収めた、作者の第二歌集である。

   右にあふぎ左にならび風のままかたじけなくも雪富士を連れ
 

雀子を止まらせたわむ擬宝珠の花茎ながし霧雨のなか

ほうたるのふたつみつつと火をともしみなづきの夜の水音を消す

自身を客観的に見つめ、自然に分け入る作者が浮かび上がる。草木や鳥や虫と同列にヒトが置かれる。目の前の生きの有り様を通じて、自然への畏怖や生命の尊さが伝わってくる。 言葉は柔らかくほどかれて、幻想的な景として感覚に響く。

   石垣にしまはれゆきしくちなはの全長見るなく折に思へり

音もなく積りしものに陽のさして屋根をせり出すそらおそろしさ


 不思議な感触。〈しまはれゆきしくちなはの〉と、時間は引き延ばされ、そこに、人の力の及ばぬ何モノかが蠢く。目に見えないが静かに存在する、音はないが着実に積もりゆく、そのような得も言われぬ不気味さをも、自然は内包する。

 

出かければ沙汰なきをとこ出出虫(ででむし)ののんのんのんと降る雨の中

連れだちて冬の星空あふぎしを思ふ日あるや あらずとも良し


ヒトを見つめる眼差しもまた温かい。出掛けるのは定年を過ぎた夫であり、連れているのは、ものを言わぬ十二歳の少年だということが、連作から分かる。共に過ごす「今」という時間が愛しまれる。

 

借りものの「海人全集」に気をとられクリアファイルに足をすべらす

三キロのトマトをソースに仕上げたり仇討ちしたる心地と言はむ

かつぱ橋に求めし白髪葱(しらがねぎ)カッター肝心なときつかふを忘る

なにもかもはふり散らしてフォークルのアーカイブスにすわる二時間

蚊を連れて入りこし人が蚊を置きて出でてゆきたり良夜深更

 

 このような活き活きとした作者像に親近感を覚え、歌集を繰り返し読みたくなる。


   ありさうなことだと頬のゆるびたり笑ひてすめばけふ どんと晴れ

 腹が立ったとき、悲しいとき、苦しいときに、この歌を唱えたい。前向きになれる魔法の呪文として。

                                (水甕岡崎支社 木村美和)
 関連記事 「旧仮名の良さ」(重吉知美)
http://livedoor.blogcms.jp/blog/kimuramiwa-suibaika/article/edit?id=8432169



  木村美和と重吉知美で、石井僚一第一歌集『死ぬほど好きだから死なねーよ』批評会(2018年5月5日・中野サンプラザ)に出てみた。既にネットで感想がたくさん上がっているようなので、私は勝手に書かせてもらう。
 登壇者は、荻原裕幸、服部真里子、小原奈実、情田熱彦の4名。結論から言うと、登壇者が全員真面目で大変によかった。私がこの手の批評会に行かなくなったのは、態度の悪い評者への不快感からである。どう態度が悪いかと言うと「だってわかんないからムカつくんだもん」と投げ出すのである。あと、知らない言葉について調べてこない人もいた。言っておくが、若年層だけではない、還暦ぶっちぎりのベテラン大歌人の話である。その中で例外として「中部短歌」の古谷智子さんは絶対に安心できる人で、この人がいたら他の評者が全員ひどくても参加費を払った甲斐があるものだと思えたぐらい、まともで真面目な人だ。
 脱線したが、まあそういう経験があるので、4人が4人とも真面目な批評会というものには少し驚いた。情田熱彦さんが短歌作品だけでなく石井僚一の人格に言及するあたりは評価が分かれるだろうが、1人ぐらいは変化球を投げてもいいのかもしれない。むしろこういう「人格」べったりの話は、一部の歌人たちには馴染みやすい話ではないか。私は作者の人格などどうでもいいけど。
 4人の報告内容についてはここでは書かない。ググってくれ。だけど、わざわざ登壇者に立候補するぐらいの服部真里子さんの石井僚一推しが迫力あってクラクラしたということは間違いないだろう。私が個人的に良いと思ったのは、小原奈実さんの報告だ。「分かりにくい歌集をきちんと読んでみる」という分析的態度に、私は好感を持った。彼女は、作者が人間を信用し、その他の記号(本、言葉、短歌)がそれに対立していると考えているのでは、という仮説を立てながら慎重に話を進めていた。こうしたなるべく客観性を保とうとする態度は、研究者に多く見られる。大して作者推しでないことを表明した上で安易に投げ出さないで、分析の対象としてなんとか抱えていく様子は、誠実だと思う。
 会場からは中高年層のベテラン歌人が発言者として選ばれ、先輩歌人としての薀蓄やアドバイスをありがたく流していたが、その中で辰巳泰子さんの発言の一部が印象に残った。

プールに金魚が鮮やかでどの子がわたしたちだろうねってこれからすくうやつだよ

 この歌は、女性の問いに対して男性が「これから掬って家に持ち帰る金魚だよ」と答える、この掛け合いがいいという。辰巳さんの発言はもっと明快で分析的であったが、私の記憶が曖昧で申し訳ない。しかし、この話は私にとってある意味登壇者たちより重要だった。つまり、一般に分からないとされる歌について論じること以上に、分かりやすい歌について論じることも大事なのではないか。私はこの歌集がいまいち分かった気になれなくて、特に過剰な字余りのリズムが理解を妨げてきつかったのだが、こういう「私が分かったと思った歌」について語ることも作者に近づくルートなのではないか、と感じだのだ。

(重吉 知美)

関連記事
石井僚一『死ぬほど好きだから死なねーよ』~言葉の力で愛に挑む(木村美和)
http://livedoor.blogcms.jp/blog/kimuramiwa-suibaika/article/edit?id=7763203

 


spring-bird-2295436__340

田村昌子『せんにちこう』より

二段目の抽斗押せば三段目ふわりふくらむ母の桐箪笥

ほったりと菜の花の闇に包まれて真昼の猫を見失いたり

牛乳を三百年間そそぎいるフェルメールのふくよかな女(ひと)

幼児が抓んで切れたきん色の蜥蜴の尻尾バケツに撥ねる

小手毬のふさやかに揺るる日面に夫の白髪切り揃えおり

(木村美和)









paris-843229_960_720
作者がこれから住む、パリのアパルトマンから本歌集は始まる。

 

  手にとれば天道虫は歩みだしメトロの音が遠くに聞こゆ

 

窓の外に凍えていたという季節外れの天道虫を、作者は何を思い手にとったのか。天道虫が、手の中で歩みだすと同時に、作者のパリでの時間が、現実の実感を伴い動き始める。仕事とともにある日常を象徴するように、メトロの音が響く。

 

左岸より右岸にわたり右岸より左岸にもどるビルアケム橋

   白く顔を塗りたる男ふたり来て薄暮に去りぬ白きその顔

牛たちをかつて屠りし十五区は吟遊詩人の名前を冠す

公園の池のほとりの秋深くためらひしのち犬泳ぐかな

  

作者が暮らしているパリの風景が、旅行者のそれとも定住者のそれとも異なる、一人の生活者の冷静な視点で描かれる。作者が実際に見聞きしたと思われる出来事が、随筆のように丁寧に綴られている。

あとがきに「パリでは、左岸の十五区に住んだ」とある。ビルアケム橋は、日々の通勤で往復した橋か。橋を中心におき、その日々の移動のみに単純化された表現に、短歌ならではの面白さを感じる。

二首目にも、そのような単純化が見られる。男たちは何者か、何のために顔を白く塗っているのか……、ある筈の情報がない不安感とともに、白い顔のみが薄暮の記憶に残される。

物事の本質を捉えようとする透徹した眼差しは、住居のある十五区について、〈牛たちをかつて屠りし〉ことと、〈吟遊詩人の名前を冠す〉こととの二つの面に焦点を当てる。また、公園の池を犬がためらひしのち泳ぐ姿に、秋の深まりを見る。

    

  春めきて今日はサラダにパルマ産ハムとごろつとメロンをのせる

  オリーブのパテを塗りつつ夏の日をひとりぼつちのふたりで語る

  血と油の豚の腸詰ブーダンの皿には焼いた林檎を添へて

  垂乳根の母と小ざさの最中食む白葡萄酒のコルクを抜いて

            註.「小ざさ」は、東京の吉祥寺にある和菓子屋。

 

食に因んだ歌にも魅力的なものが多い。なにより美味しそうであるし、異国の生活が匂いたつようだ。作者のちょっとした拘り、または嗜みが垣間見える。食は、体と心に与える栄養であり、思考を介さず、1人で、た易く快楽を得る方法でもある。異国の地に一人働く日常において、季節を感じたり、ストレスを感じたり、風土を感じたり、さまざまな場面で、その時間を彩る食べ物が添えられる。久しぶりに母と過ごす時間にもやはり、場を和ませる食べ物が添えられる。

  

  こんな日は博物館を訪ひてドードー鳥の骨かぞへたし

 

パリにいて、作者はよく本を読んでいる。『シジフの神話』、『古今和歌集』、「超現実主義(シュルレアリスム)の書」、「理性の祭典」などの、さまざまな書物が登場する。それらもまた、作者に、安らぎと栄養を与えているようだ。

ドードー鳥について、「1598年に人間に発見されてから僅か83年で、ドードーは絶滅した」「近年、モーリシャス島で化石化したドードーの骨が多数見つかり、良質な骨格標本が2体つくり出されている」(ピクシブ百科事典https://dic.pixiv.net/a/ドードー鳥)とある。
作者の思いは想像するのみであるが、緊張を強いられる仕事の合間の、なんだか楽しそうなひとり遊びの時間のようにも感じられた。


                                                                                        (木村美和)

↑このページのトップヘ