水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

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歌集

山川藍さんの歌集『いらっしゃい』を読んだ。ひとつひとつの言葉の持つ力に圧倒された。

  妻となる人と夫となる人が同じ売場にいてうざいです
  寝過ごした午後の一時に起きましたコアラのえさの時間ですがね

1首目、身も蓋もないようなことを言ってしまっているのだけど、「です」の妙な報告口調が面白い。うざいんだけど、表情には出さずにうまくやっている感じ、が出ていて共感できるし、楽しい。
2首目、「コアラのえさの時間ですがね」と言われましても(笑)、という気もするけれど、寝過ごした自分に丁寧に突っ込みを入れている感じがやっぱり笑ってしまう。おそらく、以前動物園で、コアラの食事を見るためにその時間を覚えていたのであろう律儀さもうかがえるし、昼間は基本的に寝ているコアラの様子は寝過ごした自分の様子にもつながるし、夜行性のコアラでさええさを食べるために活動している時間なのに自分は、という自虐も含まれているし、なんだかすごい。これから、寝過ごしたりコアラを見たりする度に絶対思い出してしまうと思う。

他にも好きな歌をいくつか挙げる。

  履歴書の写真がどう見ても菩薩いちど手を合わせて封筒へ
  仲間だと思うあなたとかなしみを具体的には分けあわないが
  接客をしていた時のいい声で「いいじゃないですか」とたまに言う
  わたくしはわたくしの王さいはての校舎でペンの選別をする
  誰からも怒られたくはなくて行く文房具屋のはさみコーナー
(幻桃 江口美由紀)

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「③空を見上げる」でも触れたが、作者は、見るもの聞くものを、まるで生まれて初めて体験する刺激のように受け止める。既成の概念を疑い、自身の感覚で捉え直し、言葉を与える。今ある世界は少しずつ破壊され、新しい世界が築かれてゆく。


  まれまれに綿の詰まりて生まれくる体のあるを長らく信ず (p126)

 1首で読むと、幼びた可愛らしい無知、あるいは天然少女のようでもあり、おそらくそのような部分もこの歌の一面なのであろう。(参照:重吉知美「④ブラックユーモア」http://livedoor.blogcms.jp/blog/kimuramiwa-suibaika/article/edit?id=12277050)
 しかしこの歌を、連作「闇の温度」(pp124-127)の中に読むとまた異なる様相を帯びてくる。作者は、息も詰まるような寂しさに居る。布団に足を入れれば〈闇の温度〉に触れてしまい、〈影引くことも許されなくて〉、〈動かなくなるまで蟻を泳がせ〉る。作者は〈綿の詰まりて生まれくる体〉に、自身を重ね合わせたのかもしれない。痛みを確認し、自分の中に赤い血が流れることを確認せずにはいられなくなったのかもしれない。

  我が母の腹の膨らみ日ごと増し孕み直されゐたるわたくし (p96)
  熟寝(うまい)する母を初めて見し夜明け漕ぎ出さむと乗りし方舟 (p194)
  酔ひたれば角にぶつけるこの胸の膨らみにまだ慣れ切ってない  (p132) 

  

生まれる以前、母の胎内に生を受けるところから、作者は「感じる」ことをやり直し、自身の言葉をもって生まれ直す。出生は大変な衝撃で、そのときに受ける無意識の傷、こころの傷がのこるという。(吉本隆明『詩人・評論家・作家のための言語論』pp27-29)そのような痛みを伴いながら、あえて生まれ直し、生き直す。そうすることでようやく、作者は生きている実感を得ているのかもしれない。

(あとがきより)
「私は我が身を爛れさせる痛みを、代わりの痛みとして、自分を切り裂かなければ生きてこられませんでした。(中略)私にとって短歌は、「苦しみ方を変える変圧器」のようなものです」

 

(水甕岡崎支社 木村美和)



曾祖父はづんつあンと呼ばれづんつあンは柘榴の花が好きなのでした (pp.209)
  • 曾祖父は「づんつあン」と呼ばれていた。
  • 曾祖父は柘榴の花が好きだった。
 この二つの情報を組み合わせただけで、妙に愛唱性のある歌ができたことに驚かされる。
 <づんつあン>は、共通語で言えば「じゅんちゃん」であろう。だが、「曾祖父はじゅんちゃんと呼ばれじゅんちゃんは柘榴の花が好きなのでした」ではイマイチである。やはり、地域性を思わせる<づんつあン>という言い方であるからいいのである。

雪は黙つて降るべ雨は黙らねべ しんしん痛む祖母の右足 (pp.211)

 雪の降り方と雨のそれとの違いを、足をさすりながら話しているのだろうか。初句と二句は句またがりであり、決して読みやすい定型ではないのに、覚えやすくて口ずさみやすい。方言で話すおばあさまの言葉が、作者に、そして作者を通して私たちに沁み入り、<しんしん>というオノマトペが一首全体のトーンを決定する。

 木村美和の書いた前回の記事にもあるように、木ノ下さんは母方を通して東北にルーツを持ち、静岡県内で育った。<づんつあン>とか<雪は黙つて降るべ雨は黙らねべ>という言葉は、東北のアクセントなのだろうか。あるいは静岡でもこのように話すのかもしれない。それらはどのような息吹によって告げられたのだろう。

(水甕 重吉知美)

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   ワンセグが切れ切れに映す気仙沼の火に泣きしとふ東北の祖母

  あの日々を皮膚のごとくに着続けしジャンパーに地震(なゐ)のにほひ残ると

雪は黙つて降るべ雨は黙らねべ しんしん痛む祖母の右足

 

作者は、山形県に生まれ、静岡県清水区の三保に育った。本歌集中、東北について詠われたものは多くないが、その印象は強く、歌集全体に深い陰影を与えている。

土地の名は枕詞であると言うが、「東北」という土地の持つ一つの詩情もあるだろう。震災のこともあるだろう。そして祖母の持つ繊細で深い感性と、土地の持つ生命力の強さが、作者へとたしかに引き継がれていることを、本歌集を読んで確認する。

 

 みちのくより嫁ぎて来たる二十九の母か 道辺の蜜柑を拾ふ

  二十九の母の黒髪浜風にまだ慣れざれば吹かれやすきよ 

  

 二十九という母の年齢を越えた作者である。母が蜜柑を拾う姿や、浜風に吹かれる姿は、実際には見ていないはずであるが、写真やビデオなどの記録だろうか。蜜柑の色鮮やかさや、浜風に煽られる長い黒髪の生々しさは、歌人としての霊感が作者に見せた心象風景のようにも思われる。

(水甕岡崎支社 木村美和)


 木ノ下葉子は水甕社で新人賞・水甕賞を受賞した実力派だが、この第一歌集は私(たち)の予想をかなり越えた出来であったと思う。結社内外の歌人にも既に言及されている。

木ノ下葉子さん歌集『陸離たる空』:jljlojk  萌黄の鳥 パート2  佐々木則子さん(水甕社)
木ノ下葉子歌集『陸離たる空』に読み終えて:タレーラン=ペリゴールの仔豚 結城剛さん
「陸離たる空」を読む:白井健康さん(未来短歌会)のnote
一首鑑賞・日々のクオリア:砂子屋書房 染野太朗さん(まひる野) 

 これらのレビューで分かるように、彼女は精神疾患を抱えており、歌集にもそのモチーフが繰り返し歌われる。だから読者の多くは「繊細で壊れやすく、それ故に美しく豊かな感性」というイメージを持つだろう。それは確かに間違ってはいない。しかし、一方で、私はドキリとしたりクスッとしたりした歌にもたくさん出会った。

太陽に笑ひかけられ疲れたりコジマの看板避けつつ歩く (pp.17)

 大手家電量販店の「コジマ」が使用する、大口スマイル太陽マーク。それに「疲れる」という率直な言い分が面白い。今年の夏のように猛暑の中だったら、なおさら鬱陶しいだろう。または「親密さ」を押し付けてくるある種の人々に対しての諷刺にも読める。

各駅停車ドア広告の聖家族駅に着くたび真二つとなる (pp.111)

 割れちゃうwww真っ二つに割れちゃうwwwしかも各停だからwwwwwいちいち割れちゃうwwwwww

ヒラウコンバインバインとエンジンを唸らせ尻より藁屑こぼす (pp.113)

 この歌は水甕の全国大会で提出されたもので、結社誌の大会報告で見た記憶がある。「疲労困ぱい」と「コンバイン」を掛けたのではないか、という批評を読んで、へーーっと唸ったものだ。実際にそういうダジャレがあるらしい。彼女はそこからコンバインの様子をユーモラスに描いて結句へとつなげていった。

「ございます毎度ありがたう」斜交ひに巻き付けてゐるペーパーの芯 (pp.138)

 どうでもいいことなのに、彼女がこうやって歌にするとなんだかクスッと笑ってしまう。

矢印の示す先には神がゐる 導かれつつ精神科へと (pp.141)

 一方で、こういうドキリとする歌がある。本人の治療に関する一場面であろう。<精神科>には確かに<神>の字が含まれていて、病院内の精神科病棟への方向を示す矢印もまた<神>への方向を示すのである。

恐竜のゐた頃不眠症ありしやフルニトラゼパムのしのし歩く (pp.205)

 薬の歌はたくさんあるだろうが、睡眠導入剤を恐竜にしてしまった人はあまりいないだろう。

 これらには彼女が密かに持っているユーモア、もしくはブラックユーモアの感性が光っているように読めた。直感的かつ客観的な描写の作用もある。
 ただし、こういうブラックユーモアの感性は、やはり繊細で豊かな感性と一続きである。つまり、それぞれが彼女をモザイク的に構成するピースであるというよりは、彼女の中で滑らかに形成されているシークエンスなのだ。
 
漂白剤そんなにぶつかけなくたつて 父は茶渋をもう残せない (pp.55) 

 砕けていてユーモラスな文体の上句に対し、一字文の空白の後に父の死を示す。悲痛な挽歌ではあるのだが、何かおかしみも感じられる。それは上句の文体だけでなく、人は死んだら茶渋をもう残せないんだよ、とわざわざ言うことにもあるのだろう。そして、その可笑しみが、父の不在という決定的な悲しみを再提示してくるのである。

 本歌集を読みたくなったら、出版社の港の人まで。

(水甕社 重吉知美)

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