パネラー各氏のご発言を、簡単に記します。
※簡単な抜粋メモです。お気づきの点等ございましたらお手数ですがお知らせください。
加藤英彦氏
【Ⅰ】内面の言語化
作者(木ノ下葉子)は、同年代(若手)のどれとも交わらない感性を持つ。全身から湧くエネルギーの質が違う。それは、ものすごく大きな欠落を埋めようとする切実さの内圧とも言える。
父は茂、妹は梢、風はいつも固有名詞の彼方から吹く
→象徴的な歌であり、〈風〉には近しいものを感じる。
言へなかつたことばは川を下りゆき汽水となりて頬を伝へり
→内面の重量を支えきれなかった。
昇っても見下ろすことを赦されぬ坂を何処まで昇れば良いか
→内面への問い。坂は、実際の坂とも「生」とも読める。「生」の行き着く先は死。
【Ⅱ】死と再生の円環
生まれたら一度死ぬだけ真つ直ぐに歩いて渉る遠浅の海
→「真っ直ぐ」は、他の歌にも見られる。真っ直ぐ行くことが作者の基準。とても純粋なひたむきさ。
金魚掬ひのごとくささつと健康な自己を掬つて育てなければ
リスペリドン、クエチアピンにビペリデン、我を生かしてくれよ初雪
入口はこの白きドアのみなればいつの日か此処を出口となさむ
→生きようとする歌。それに対し、
死ねばもう眠くないんだシャッターは引き上ぐる時意外と軽い
我といふ生をあなたに返すからあなたが笑つて笑つて捨てて
→死の方へ振れている。生(まっとうに生きようとするひたむきさ)の反動。これが詠う必然性へ直結している。必然性の強度が同年代の中でも突出している。
【Ⅲ】父・家族
手の小さき妹が花嫁になるわが妹がもみぢの下で
熟睡(うまい)する母を初めて見し夜明け漕ぎ出ださむと乗りし方舟
片耳より眠りに落ちていく父の最後の音になりたかりけり
→家族というより、父と私、母と私、妹と私、という風に詠まれている。
父が、互いに最も良き理解者であり、没入、自己投入しているのに対し、母との関係には距離が見られる。
【Ⅳ】感性への振幅
よしずよしずと売る声のする雲間かな目を閉ぢてゐる方が眩しい
→目を閉じる(現実に消えている)ほど記憶に鮮明に残る
~つづく。次回は田口綾子氏です。
(水甕岡崎支社 木村美和)