水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

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水甕叢書

6月1日(土)13:30~16:00 
芦屋市民センターにて『金の環』を読む会が行われました。
パネリストは、林和清氏、真中朋久氏、春日いづみ氏です。
印象に残ったことを一部、紹介したいと思います。

林和清評より~

  花散らす雨の重たさ 卵管を静かに下る卵の老いゆく
  遠からず来るメノポーズ霧深き異国の街の名前のやうな

 男性には頭でわかっても実感できない部分。女性にとっては身に引き付けて感じられるであろう、それも向き合いたくないであろう部分にしっかり向き合っている。生々しいことでありながら歌い方が非常に清潔、やや冷ややかな感じに歌っている。

  囁きに震へし耳もひらひらと夜の桜に混じり散るらむ
  さつきまでわれを映してゐた君の眼鏡涼しく置かれてゐたり
  君の喉潜りて音となるわが名聞かむと待てり葉桜の下

 老夫婦でも若い夫婦でもない夫婦の愛の歌として注目。一首目、記憶の中にある耳が桜に散る、言葉によってこれほどのイメージを喚起する。二首目、三首目はイメージより現実の捉え方として感情がこもる。こういった身体感覚を通して相手への思いを詠んだものに、良い歌が多い。

  犬は犬を子供は子供を目で追ひぬ夕暮れの道擦れ違ふとき

 人間の認識の在りようを感じる。同類に対する気になり方は、決して優しい眼差しばかりでない。自分で気づかないような差別意識や階級意識まで考えさせられる。

  冬の蚊を打ちし手のひら生まれたる音ひんやりと洗ひ流せり
 
 出来事として何も言っていない。「音」は命を殺めた音。
 この作者は、やはり身体感覚として捉えたものが素晴らしい。

  死をそつとこの世に置いて人は逝く 窓にひとひら昨日の桜

 死は生きている人の側にあるという実感が、歌にすることにより普遍となる。死に桜はつきすぎ。

 一旦ここまで。

(水甕岡崎支社 木村美和)






 ブログメンバーの加藤直美さんが昨秋、第一歌集を出された。水甕賞受賞経験があり、作歌力は十分で、待望の歌集だ。
 既に本人からの紹介、ご寄稿による歌集評もある。

金の環 歌集出版のお知らせ
成人の日 歌集からの作品紹介
『金の環』 の歌評をいただきました! 枝豆みどりさんご寄稿


 私からは、まずは震災について詠んだ歌を紹介したい。

新学期の子の教科書に一行の史実となりて〈震災〉がある pp.77

 1995年の阪神・淡路大震災か、2011年の東日本大震災か。教科書に(おそらく社会科か日本史のそれに)表記されているのだろうか。教科書に載るということは、死傷者が多かったということ、損害が大きかったということ、その後の社会への影響が深刻だったということだ。だが、それらの詳細は省略され、<一行>にまとめられる。他の史実と同様、重要なことだが簡潔な表現で示されるのだろう。

ライラックの便りとともに地震なゐふりし地より答案戻り始める pp.89

貌見るなきボーロのやうなひらがなが囁く「じしんはこわかったです」 pp.90

 職業詠の連作より二首。通信教育の添削の仕事のようだ。ライラックが咲くのは4月以降だというから、2011年東日本大震災の被災児たちと思われる。お互いの顔を知ることのない、文字だけでやり取りする関係。<ボーロのやうなひらがな>を書く子は、作者の馴染みの(ただし対面する機会のない)児童かもしれない。丸っこい文字か、またはタマゴボーロのようにふわふわした文字か。すべてひらがなで書くぐらいだから小学校低学年だろうか。「じしんはこわかったです」と自分の恐怖を頑張って言語化した健気さに胸が痛む。

潮の香が川上がり来る雨の前ここにも津波が来るといふこと pp.132

 加藤さんは確実に「あった」事実として震災を詠む。ある災害に関して、そこで被災しなかった者の多くは記録を読み、話を聞くことで震災を追体験していく。本歌集の「震災詠」を読んで、私個人の震災追体験はどうあるべきだろうかと考えた。

(水甕 重吉知美)

12月9日に<木ノ下葉子歌集『陸離たる空』を読む会>が、東京で開催された。パネリストとその報告内容については、木村美和さんがレポートしている。

木ノ下葉子『陸離たる空』を読む会①~加藤英彦氏
木ノ下葉子『陸離たる空』を読む会②~田口綾子氏
木ノ下葉子『陸離たる空』を読む会③~清水正人氏

このうち、田口綾子さんが本歌集中における「正しさ」へのこだわりを指摘している。

-----以下、報告レジュメより-----

Ⅱ「正しさ」への志向
 
  視野の端の眼鏡のフレーム消し遣りて仰ぐ景色を二刷(にずり)と思ふ pp.26
  真つ白にこんなにしろくなるのかと指ばかり見る顔よりも見る pp.48
  木洩れ日を映して揺るる壁それが閉鎖病棟の壁であること pp.185

✳︎

  歳時記を覚えてしまひし後の夏季節はかつて眼を打ったのに pp.33
  よしずよしずと売る声のする雲間かな目を閉ぢてゐる方が眩しい pp.101
  海より青き海を見てをり断熱用フィルム貼られしバスの窓越し pp.117

Ⅲ「正しさ」のバリエーション

  医者の来る気配に居様を整へてしまへり正しく嘆かむとして pp.48
  お大事にと言はれて気付くさうだつた私は患者で貴方は医師だ pp.78
  書くほどに冷えゆく指かまだ母を物語になどしたくはなきに pp.88
  吹かれつつ靡かぬままの我が影をときに足から切り離したし pp.106
  きみの名に忌と続ければ唐突に君は死にたり陸離たる空 pp.139
  君のこと物語にした罰としてどんな晴れにも行き止まりができた pp.180
  金環日蝕まさに輪になる瞬間に人の噂を始むる母は pp.188

-----以上-----

この「正しさ」について、パネリストの 加藤秀彦さんが「田口さんのおっしゃる「正しさ」には「社会一般での正しさ」と「<私>の持つ正しさ」の二つの水準があるのではないか」という趣旨のことを指摘した。
私は、加藤さんのおっしゃる前者の意味での「正しさ」、すなわち社会規範についてよく考えることがある。この点にだけ焦点を当てると田口さんの議論の多くを取りこぼしてしまうのだが、しかし、木ノ下さんが規範の歌を詠んでいたという事実はなかなかに面白いように思う。

  医者の来る気配に居様を整へてしまへり正しく嘆かむとして pp.48

これは「望ましさ」としての規範の歌である。他人であり家族の死を公的に見届ける医師の前で、遺族としてどのように嘆いてみせるのが適切か、最愛の家族が亡くなる場面であるにもかかわらず、この冷静さには鬼気すら覚える。

  お大事にと言はれて気付くさうだつた私は患者で貴方は医師だ pp.78

診療室では、患者は患者の、医師は医師の「役割」を演じる。誰かの娘、父親、恋人、夫ではなく、患者/医師としてである。それが診療室での適切な規範であるからだ。加藤さんはさらに医師と患者の非対称的な関係性と、それをすっかり忘れてから<さうだつた>と気づく<私>の奇妙さを指摘している。こうした役割期待に基づく「望ましさ」の規範は、精神科の診察を受ける場面での作品に見られるようになる。

  きみの名に忌と続ければ唐突に君は死にたり陸離たる空 pp.139

私たちは有名人や文化人の名前、あるいは彼らにちなんだものの名前に「忌」をつけることで、ある特定の日を「偲ぶ日」として設定することがある。この歌はそうした私たちの言語規範、慣習としての文化的規範を別の方向からなぞり直すことで短歌にしたものである。

  金環日蝕まさに輪になる瞬間に人の噂を始むる母は pp.188

この歌は<私>の考える「正しさ」と<母>の考える「正しさ」の(ユニークな)対立が指摘されたが、この二者の「正しさ」はいわゆる「価値観の違い」として同じ社会で並存することがある。<金環日蝕>という天体の歴史的イベントの前では、俗世間の噂などにかまけていられない、という人の方が多いだろう。しかし、遠くてよく分からない宇宙よりも身近な人間生活の方が大事、という「正しさ」もある。

私が木ノ下さんの「規範の(再)記述」の技法に拘るのは、それが私(たち)が彼女と肩を並べられる唯一の突破口であるからだ。木ノ下葉子さんのような歌人は、繊細で、感性豊かで、文学的だとされている。そして、そうしたいっぺん通りの賛美の言葉には、「この才能は生まれつきのものだからどうせ近づけない」という勝手な諦めが混じっていることがある。確かに感性の豊かさはそうそう真似できるものではない。しかし、社会規範を観察し記述しなおすことに、感性とか才能は必要ない。彼女はおそらく無意識にそうした技法を展開しているのだろうが、私(たち)はその技法を意識的に身につけることが可能なのである。

(水甕 重吉知美)

3人目のパネラーは清水正人氏です。
最終発言で、また司会を兼ねており「ここまでで話題にされなかった点を」ということで、お話しくださいました。
※簡単な抜粋メモです。お気づきの点等ございましたらお手数ですがお知らせください。

Ⅰ ユーモアとアイロニー
 ユーモアの奥行きにはアイロニーが必須である。アイロニーにユーモアが欠けていたのでは、聞くに堪えないのと同様に。有無を言わせぬ痛烈な皮肉を纏った著者の諧謔はすこぶる健康である。(レジュメより)

  しあはせであるしわよせがやつてくる皆様にはご健勝のことと
→一つまみの塩が、ある種の奥行になる。

  石鹸を使ひ終はつた午後届く喪中葉書に咲く胡蝶蘭
→石鹸は、終わりに近づくと無くなったり、新しいものに貼り付けたりする。それを最後まで使い切る作者の午後。

  玉かぎるハローキティは前足でペロペロキャンディー持つたりもする
→「玉かぎる」は「ほのか」「夕」「はろか」などにかかる枕詞。「はろか」⇒「ハロー」⇒「ハローキティー」と活用?!

Ⅱ 特権的肉体考
 肉体を持たない人間はいない。存在はその始まりからすでに特権的なのである。とりわけ著者の肉体は、著者の言葉によって異化されて、不思議な量感を獲得した。(レジュメより)

  欄干にいつまでも胸押しつけて水面見つめる少女であつた
→著者の歌に出てくる胸は、乳房というより大胸筋がイメージされる。欄干にいつまでも押し付けている肉体感覚。

  水は青く、ないと言ひかけザラザラのプールサイドに膝抱へゐき
→〈ザラザラの〉という肉体感覚。その中で膝を抱えている。

(水甕岡崎支社 木村美和)



「木ノ下葉子『陸離たる空』を読む会①~加藤英彦氏」に引き続き、②田口綾子氏の発言です。
※簡単なメモの抜粋です。お気づきの点等ございましたら、お手数をおかけしますがお知らせください。

Ⅰ 凝視
 目力すさまじい作者である。作者は、都合の悪いものをシャットダウンしないことを、強いと思い、大人と思い、そうなれないと言う。異常なまでに目の前の物に執着する。ただ見るのではなく、正しさへの希求につながる。

  瞼より眼が偉いばつかりに静かなひとになれないと泣く (P122)

  目を開けて生まれたる我まなこには母の痛みの入らむばかりに (P133)
  目の前で色の褪せゆくことのなき紫陽花の玉を日暮れまで見つ (P149)


 
Ⅱ「正しさ」への志向
 
  視野の端の眼鏡のフレーム消し遣りて仰ぐ景色を二刷(にずり)と思ふ (P26)
→フレームの無い景を本当とまでは思っても、なかなか二刷までは思わない。本当の景、つまり正しいと思う景は、しかし私が加工した景である、と作者は思っている。

  真つ白にこんなに白くなるのかと指ばかり見る顔よりも見る (P48)
→本当は顔を見るのが正しい。でも指を見てしまう。理想の正しさとずれてしまう自分。

Ⅲ「正しさ」のバリエーション
「見る」以外の例

  お大事にと言はれて気付くさうだつた私は患者で貴方は医師だ (P48)
  金環日蝕まさに輪になる瞬間に人の噂を始むる母は (P188)

Ⅳ 聴覚への広がり
 歌集前半は視覚優位。後半は聴覚に取材した歌や破調が出てくる。

  葉擦れ鳴る中庭はどこも閉ぢられて風だけが去るしまとねりこ揺る  (P165)
結句八音は歌集中唯一では?

Ⅴ 過去に向き合う
 過去の助動詞の使い方が独特。

  死ぬということば覚えてのち暫し生くといふ語を知らずに生きき (P17)
  別館五階緩和ケア科の廊下には厚き絨毯敷き詰められき (P43)

→生きるとか、絨毯が敷き詰められているとか言うときに通常、過去「き」を使わないのでは。このような形で過去の助動詞を使う作者の思いを象徴するような歌が次の歌。

  現在を過去へ押し遣るやうにして定まらぬ夜のアクセルを踏む (P10)


~つづく。次回は清水正人氏です。

(水甕岡崎支社 木村美和)



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