巻頭歌
  三月の真っただ中を落ちてゆく雲雀、あるいは光の溺死 

 鳥を飼いたかったこともサンダルもなべて金星ほどの光点

 ひまわりの種をばらばらこぼしつつ笑って君は美しい崖

 

 生き急いでる印象を受けた。精一杯に生きている、と言うべきか。
 作者を取り巻く風景も人々も、またたく間に作者の脇を過ぎてゆく。明るく温かくなりはじめた三月。空高く舞い上がり縄張りを主張するための囀りののち、真っ逆さまに落ちる雲雀は、まさに光そのものであろう。強烈な印象を与えた光は、しかし雲雀もろとも「今」を溢れる光に溺れて、見えなくなる。手を伸ばせばすぐそこに老いがあり、その先には終末が見えている。だからこそ「今」は光に満ち溢れ、作者はその
にたくさんの光を掬い上げようとする。指の間から、漏れてしまったものたちへ思いを寄せる。そして、光が失われることを怖れて、はるか彼方、見ることのできない世界にまで手を伸ばそうとする。


  雪の日の観音開きの窓を開けあなたは誰へ放たれた鳥

  鶏肉がこわかった頃のわたくしに待ち合わせを告げてくれませんか

 けれど私は鳥の死を見たことがない 白い陶器を酢は満たしつつ   

 

 鳥は「今」を耀く光に、像とつかの間の生を与えた、云わば光の具現として作者を弄ぶ。
 観音開きと鳥との組み合わせに、胸肉(鳥の死)を連想するのは読み過ぎであろうか。作者は、〈鳥の死を見たことがない〉と言う。鳥は作者にとっての「今」、つまり作者自身の生きている時間へ直結するのであるから。生きるために必要な、飲食(おんじき)の準備として〈白い陶器を酢は満たしつつ〉あるのに。唐突に「けれど」で始まるあたり、解釈がややこしいが、まだ何色にも染まる可能性を持つ、白い陶器、硬質な、それでいて脆い器には、刺激に溢れた液体が、きらきらと「今」(作者が生きている時間)を集めている。鶏肉、つまり鳥の死がこわかった頃の作者には、「今」をわずかにでも引き延ばす約束が、慰めとなるであろう。 

  花降らす木犀の樹の下にいて来世は駅になれる気がする

 

〈なれる〉と言うからには、なりたいのであろう。しかし「駅になりたい」とはいかなることか。気になりながら読み進めると、駅がさまざまに詠われている。


  煌々と明るいこともまた駅のひとつの美質として冬の雨

  ジャンプと水だけ提げて晩秋のホームの端から端まで歩く

  終電ののちのホームに見上げれば月はスケートリンクの匂い

  駅前に立っている父 大きめの水玉のような気持ちで傍(そば)へ 

 

 暗く冷たい冬の雨の日にも駅は〈煌々と明るい〉。先のことなどあれこれ考えず「今」を楽しむだけの時間をゆっくり味わうにも適している。いつだってそこにあり(居て)、作者を迎え、送り出し、時に小さな喜びを与えてくれる。愛しい「今」をつかの間留め置く、そういうものに作者はなりたいのかもしれない。

 

  星が声もたないことの歓びを 今宵かがやくような浪費を

  逆さまにメニュー開いて差し出せばあす海に降る雨のあかるさ

 

チャーミングに、精一杯に「今」を楽しもうとするのは、歌集の根底を流れるキリスト教精神と関わりがあるのか。いや、もともとの性格と強い精神力かな。
                             (木村美和)
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