インターネットのお陰で、世界を身近に感じるようになる一方、深入りして戸惑うことがある。私がここハワイという特異な土地に実際に住み、深まるハワイとの関係で知ったその傷痕は、私の短歌生活を語るうえでは外せない。限られたスペースだが、その背景と実情を整理したい。

 私がハワイに嫁したのが1987年なので、既に30年が過ぎた。この地を訪れたことのある方ならご存知だが、非常に日系人の多い地である。

 1868年に153名の移民が日本からハワイを訪れたので、移民の歴史は150周年を迎え、ブラジルの110周年と比べると一世代ほど古い。真珠湾攻撃が1941年なのでそれ以前には既に日本人社会は構築され、経済をも支えるほどの力と人脈が生まれていた。こう書くと、容易く日本人社会が出来上がったように読めるが、実情は、サトウキビ畑での過酷な労働と不条理な移民契約のもと、人身売買さながらであった。勤勉な日本人は、その契約を中途解約する道も許されずに、働き尽くめで日本人社会を作ったのである。

 当時の記録を紐解くと、日本語の看板が続く商店街を行き交う人々は着物を着て日本髪を結い、子供らは日本語学校に通った。日本語メディアは、新聞ラジオ共に早い時期に開設され、文芸欄には早くから潮音詩社が活動を開始していた。

 ハワイの日系人は、想像以上に日本人としての血を誇りに思っている。それは、あの悲惨な大戦を乗り越えて勝ち取った誇りかもしれない。強制収容所に入れられた日系人が苦境を乗り越えるのに俳句や歌を詠んだ。自分たちが受け継いで来た文化に祖国日本を想い、日本人であることを再認識しつつ境遇を受け入れるという辛苦。アメリカに忠誠を誓うも、日本人であることは決して忘れないプライド。私以上に日本人であることを誇るハワイの日系人の姿に心を打たれると同時に、その一途さが切なくて仕方がない。

 海外に生きるということは、言語や習慣だけではない壁を抱えて生きることだ。無意識下の差別を自分で作ってしまうことさえある。しかし私が歌を詠む時、私の中で再生される日系移民の望郷の想いが泡立ち、私と共鳴し(時として格闘し)、やがて凪ぎるのを感じる。それはあたかも先人の魂を繋いでいく作業のように尊く満ち足りた時間でもある。

 日本の歌壇から遠いこの地で、かつての私はよく孤独を嘆いていた。歌集も簡単には入手できず孤立感ばかり膨張する時、日本の水甕社友がこう言った。「置かれた地であなたにしか詠めないことを詠んで」と。…移民にしか解らない宝物…「そうか!」その時私は初めて探し物が見つかった気がして小さな悲鳴をあげた。   

                           (シンタニ優子)



結社誌『水甕』2018年(平成30年)1月号「短歌らんだむ」に掲載  

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