の投稿である、重吉知美氏「メディアを通して被災したこと」、加藤直美氏「傲慢な読み」、その元となった大辻隆弘氏「分断を超えるもの」を、興味深く読み、思い出した話がある。

 

先月227日に行われた中京大学文化科学研究所フォーラム「歴史と文学の間」での、中京大学文学部歴史文化学科教授小川和也氏「大河ドラマ・司馬文学と歴史学~日常の発見~」(1)。そして、38日日経新聞朝刊文化往来欄「司馬作品通じ変革期の生き方考えるシンポ」(2)。司馬とは勿論、司馬遼太郎である。

 

1)の話は、1980年の大河ドラマ『獅子の時代』に始まる。ある時代(特に転換期)を描こうとすれば、見る人にその時代の大きな流れを伝えねばならない。そのとき切り捨てざるを得ない「並の人間」の日常があり、同時に、主人公を日常へ近づけようとする強い意識がドラマ制作の中にあったことが話の前提とされる。

人間の日常生活には、共通性・普遍性がある。そこから過去の人物に親しみを感じ、「肉体感」が生まれる。 いまを生きるわれわれにとって、「日常性」とは、歴史的時間をリアルに感じる通路になっている、というわけだ。

 また戦後、歴史学の史料分類には「民主化」という課題意識が反映し、その項目は、政治経済に集中した。民衆の日常に関する資料は重視されず、「雑」という項目に一括して分類され、顧みられることがなかった(青木道夫・百姓一揆研究の旗手)。その「雑」に入っていたものが、俗謡の書き写し、手習い本、句集、歌集、瓦版、生け花、囲碁・将棋などの本……であった。

 

  数日後、新聞に、同じ司馬遼太郎が出てきて目をとめた。こちら(2)は、その著書を通じて「人は変革期にどう生きるか」を考える、第22回菜の花忌シンポジウム。

 歴史学者の磯田道史氏「AI(人工知能)の普及で仕事がなくなると騒がれる現代は人間の肉体性が否定される時代ともいえる。それは幕末・維新期と重なる」、作家の浅田次郎氏「科学がどんどん進んでいく時に求められるのは哲学や文学ではないか」などの指摘に興味をひかれた。

 

冒頭の話に戻る。

重吉氏、加藤氏、大辻氏の論考に述べられる「分断」とは、歌壇に拠らず現代の社会全体についての問題と言えよう。AIが進み対人ストレスなくサービスを受けられ、SNSで同じ考えを持つ者同士が簡単につながる。教育や経済の格差はますます広がり、知らないものに対する遠慮や漠然とした怖れが、分断を、より深める。

そんな中、歌が、向こう側にいる人との連帯の可能性を示すことがある、と大辻氏は言う。歌には日常生活が詠まれる。政治経済に直接かかわるでもなく、時代を象徴するような事件でもない「並の人間」の日常生活に、自分と同じ情けを見たとき「向こうの」人と思っていた人物が、肉体をもって立ち上がる。それが「向こうの」世界に興味を持ち、理解しようとする通路ともなり得る。変革期であれば猶更、人間の共通性や普遍性を見つめる哲学や文学が必要とされるであろう。

司馬史観の中に在る「お前はいったい歴史にどう参加しているのか」といった個々の主体性への問いかけ(小川)に対する答えを、歌を詠みながら探してゆきたい。

                             (木村美和)