水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

このブログで、共に短歌を学び、短歌で遊べたら幸せです。
宜しくお願いします。

《このブログでやりたいこと》
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②学びの共有 ~研究発表、短歌イベント参加レポート、読んだ歌集の感想など~
③交流    ~告知やちょっとした日常風景、作品など~
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2019年06月

①仕事の歌
 いきいきと楽に作っている感じがする。それ以外の歌は、構えているというか、私生活を出さない、そのような作り方。その落差が面白い。(真中氏)
 良い歌を作ろうとするときのパターン化が、仕事の歌では少ない。肩に力が入っていないからか。パターンも枠を破り、いろいろなものを学ぶといい。(真中氏)
 仕事は、知らない世界が面白いが、何が読まれているか、よりどのように読まれているか。(林氏)

②詩的処理
「冷え、さびしさ、青、ふるえ、涼しい、しめる、雨」そのような言葉が多い。詩的言葉に頼ったところがないだろうか。(春日氏)
 詩的処理の仕方が、ややパターン化している。(林氏)
 一つの方向にまとまっている傾向。同じ言葉の繰り返しも多い。(林氏)
 リズムを生む、ということはある。手法会得は良いが、やりすぎれば変化に乏しく、感動も薄れる。大-小などの繰り返しも多い。(春日氏)
困ったときに、余計な変なこと言うくらいなら繰り返せばいい。しかしこれはそれとは違う。最初に出てくるものと、次に出てくるものが付きすぎな面もある。(真中氏)

③社会詠
 社会的な題材と、比喩するところがさらっと書かれすぎ。もう少し掘り下げる方が、作者の本質に近づくか(真中氏)
 分かりやすい形で提示しなくてはいけないと思ってるなら誤解。分かりやすい・覚えやすい、などの易さを安易に求めてはいけない。(林氏)
 社会詠として、簡単に触れたように見えてはいけない。常識的な範疇に終わっている。よく言われることを、よく言われる中で穏当に済ませるのでは言う意味がないのでは。(林氏)
 いざという時に、自分に降りかかる。そういう時に表現の力が自分の中から湧いてくる、それにより、まっすぐ向き合う、その時のためにどんどん歌を詠めばいい(真中氏)


!パネリストの皆様、有難うございました!


(水甕岡崎支社 木村美和)




春日いづみ評より~

  花散らす雨の重たさ 卵管を静かに下る卵の老いゆく(P7)
  春の湖(うみ)に映る三日月遥かなる象形文字の生れし月の夜(P17)

 17年間の歌を再構成された歌集。構成の緻密さを感じた。月と桜という日本人が親しみを持つモチーフを全体に置いている。女性ならではの身体感覚も特徴。

  針使ふ手元明るく照らされて丸めた背なは闇に預ける(P40) 

 一番好きな歌。手元は照らされているが、背は闇に預けている、仕事をしながら仕事にまぎれない自分がどこかにある。その自分を今は闇に預けているという発想、それをうまく表現している。仕事の歌、いきいきしている。

  乾いたものばかり息づく博物館にあなたの息の湿りゐること(P22)

 表現の巧みさを感じた。博物館に置かれているものは、悠久の時を越え、まさに乾いたものばかり。そこに、それを見る人間の生の肉体。それも最も身近な〈あなた〉の息。

  きつねうどん紅葉の寺に味はへば舌の先よりきつねめきたる(P105)

 場面設定の面白さ。紅葉は一本や二本ではない。人の心を高揚させるような場面で、人を化かす狐めく、そういうことが起こってもおかしくないような場面の設定。

(水甕岡崎支社 木村美和)




真中朋久評より~
  
  香りつつひと夜に散りし木犀の金の環めぐらせ人を拒みぬ(P175)
  香を持たぬはこゑ持たぬこと 柿の実の淋しき重さ籠に盛りゆく(P177)
  
 歌集を通し、環とか金色の物の主張が全体に亘っているようだ。二首目は、一番好きな歌。木犀の香りに対し、柿の実は他の果物のような香を持たない。それは声を持たないことなのだという捉え方が新鮮。

  黒糸より黒き喪服の黒の色死は生よりも僅かに暗い(P41)
 「しとしと」と教へるゆゑに六月の雨「しとしと」と聴く耳育つ(P96)

 仕事の歌の手触り。細かい具体に目が行くことが歌の世界をちょっとずつ良くする。〈死は生よりも僅かに暗い〉までは言わなくていいか。二首目は、気象予報士という仕事柄、注目した。「しとしと」は東京の方。関西の梅雨はわりとしっかり降る。仕事をしていると、または専業主婦なら主婦として当たり前になっているものに気づく。「しとしと」という言葉に私たちは捕らわれていると気づく。

  木の椅子の木目はとても怖かつた父の胡坐(あぐら)は妹の席(P130)

 長女気質の、つつましさや人の様子を見る視線。自分が環の中に入れず、あるいは自分の環に誰かを上手く入れられなかった。直接触れずに、ちょっと距離を持ちながら、嗅覚など微かなものを感じて世界を見ている。

ひとまずここまで。

(水甕岡崎支社 木村美和)





6月1日(土)13:30~16:00 
芦屋市民センターにて『金の環』を読む会が行われました。
パネリストは、林和清氏、真中朋久氏、春日いづみ氏です。
印象に残ったことを一部、紹介したいと思います。

林和清評より~

  花散らす雨の重たさ 卵管を静かに下る卵の老いゆく
  遠からず来るメノポーズ霧深き異国の街の名前のやうな

 男性には頭でわかっても実感できない部分。女性にとっては身に引き付けて感じられるであろう、それも向き合いたくないであろう部分にしっかり向き合っている。生々しいことでありながら歌い方が非常に清潔、やや冷ややかな感じに歌っている。

  囁きに震へし耳もひらひらと夜の桜に混じり散るらむ
  さつきまでわれを映してゐた君の眼鏡涼しく置かれてゐたり
  君の喉潜りて音となるわが名聞かむと待てり葉桜の下

 老夫婦でも若い夫婦でもない夫婦の愛の歌として注目。一首目、記憶の中にある耳が桜に散る、言葉によってこれほどのイメージを喚起する。二首目、三首目はイメージより現実の捉え方として感情がこもる。こういった身体感覚を通して相手への思いを詠んだものに、良い歌が多い。

  犬は犬を子供は子供を目で追ひぬ夕暮れの道擦れ違ふとき

 人間の認識の在りようを感じる。同類に対する気になり方は、決して優しい眼差しばかりでない。自分で気づかないような差別意識や階級意識まで考えさせられる。

  冬の蚊を打ちし手のひら生まれたる音ひんやりと洗ひ流せり
 
 出来事として何も言っていない。「音」は命を殺めた音。
 この作者は、やはり身体感覚として捉えたものが素晴らしい。

  死をそつとこの世に置いて人は逝く 窓にひとひら昨日の桜

 死は生きている人の側にあるという実感が、歌にすることにより普遍となる。死に桜はつきすぎ。

 一旦ここまで。

(水甕岡崎支社 木村美和)






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