水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

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2018年12月

 昨年の8月の記事で藤田正代さんの作品を鑑賞した。その後、ご本人から第一歌集をいただいて恐縮していたところに、11月に発行されたばかりの第二歌集『冬薔薇』までご恵投いただいてしまい、恐縮しすぎて剥いた目が塞がらない(そんな慣用句はない)。
 先にいただいた歌集のご紹介がまだだが、やはり最新歌集の話をしよう。

 歌集タイトルの「冬薔薇」には奥付けには「ふゆさうび」とルビがふってある。ただし、藤田さんは旧仮名遣いなので、「さうび」は「そうび」と読む。「ふゆそうび」と読んで、意味は字のごとく冬のバラのことだ。
 この歌集は「冬薔薇」のモチーフが冒頭と巻末に出てくる。

冬さうび蕾のままの寂しさは追つて行けないうしろでに似て pp.12
散りどきを見定めて切る冬薔薇死にぎはと言ふきはを思ひぬ pp.13
冬薔薇うぶ着のやうな花びらをそらして咲けり転院の朝 pp.198
しみじみと語ることなく逝かしめて写真の母に飾る冬薔薇 pp.200
いまここがわたしの居場所冬バラの咲きたる庭に朝の陽は差す pp.203

 共通するのは、これらの薔薇の具体的な色がほとんど示されていないという特徴である。「冬薔薇」は辞書では文字通り「冬の薔薇」という意味であるし、画像検索すると濃い赤色や薄いピンク、黄色など様々な色があるようだ。そうなると、もう少し記述してほしいという批判もありうる。どんな色かによって、歌の印象が変わりうるからだ。色を明らかにしないのは、読者に好きな色を想像してほしいという狙いがあるのかもしれない。
 一方、形については表現を心がけているように読める。<蕾>の状態を<うしろでに似て>寂しいと言う。<散りどきを>見定めて切るというのは要するに萎みかかっているのだろう。三首めの冬薔薇は咲いたばかりなのだろうか、<うぶ着のやうな花びらをそらして>いる。最後の歌は朝日が差して冬の薔薇が咲く庭が自分の居場所だという決意のような、希望のような作品で、これを巻末歌として配置しているのが象徴的だ。しかし、ここでも薔薇の花の色については触れていない。庭にたくさん咲かせていて、色とりどりなのだろう。
 歌集タイトルにするくらいだから冬薔薇がお好きなのだろう。他にも草花の歌がたくさん出てくる。私は自然の歌が苦手なので、参考にしながら読ませていただいた。

(水甕 重吉知美)

   冒頭「できるとはかぎらないけれどリプライで出た難題で短歌をつくる」という荻原裕幸個人企画に始まり、そのストイックで自信溢れる題を見ただけで恐れおののき表紙を閉じてしまったヘボ読者の私ですが、後日怖いもの見たさでもう一度開く。
 応募された難題、たとえば「来世で餃子に生まれ変わっても」(鈴木陽一レモン)とか、「眠れない夜に唱えると嘘のようにぐっすりと眠れる短歌。できれば二、三分以内に効果の出るもの」(龍翔)とか、「一世一代の恋の告白を短歌で」(月丘ナイル)とか、まさに無理難題の二十九首が見事な歌で完遂されていて、かっこよすぎる。
   たとえばこんな歌。

  たぶん宇宙の晴れ上がりから続いてるひかりの粒のあなたの小言
   (荻原裕幸  「宇宙の晴れ上がり」中家菜津子)
   4句目までの広大で美しくもふわふわとした長い修辞をもって言う言葉が「あなたの小言」。これよりも美しく、また懐かしく表現された「あなたの小言」を聞いたことがありません。「ひかりの粒」が、かけ離れた上句と結句とを自然につなげていて、上句に現実味を、結句に抒情を与えているようです。好きな歌です。

  何が禁じられたのかさへ話せない秋にしかあなたを愛せない
    (荻原裕幸  「自由題 ただしウ段音禁止」濱松哲郎)
  「自由題」とあえて書くところが憎いですね このような題を頂いたら、何をとっかかりにするでしょう。ウ段音を使わない言葉をまず思いつくまま並べてみるでしょうか。ア段から並べていてさっさといい感じにまとまったのかな、、あ、そんな単純に詠んでないですよね。ともかくア段ばかりの音の響きの明るさは危うさとなり、内容にまで及ぶ制約の息苦しさをさらに追い込む。言われてみればウ段音を持たない季節は秋のみですが、出てくる語の中で少しニュアンスが異なり、ここにわずかな空気の流れ(呼吸の許される隙)を感じました。題の縛りを逆に活かすバランス感覚に感じ入りました。

  亡命をなさざるままにふたたびの八月まぼろしの雪が降る
   (荻原裕幸  「塚本さんが43歳の誕生日につくってそうな歌」くらげ)
 短歌の練習で文体を真似してみるというのを以前話されていましたし、塚本邦雄の文体はお手の物かもしれません。ちなみにこの歌は「1960年代前半の塚本邦夫のパスティッシュっぽくしてみました」そうです。

 題詠難しかった~と、まるで自分が詠みきったような満足感
 題詠をするとき、「題からいったん目を逸らした方が書きやすい気がします」「いちばんの問題は、題詠をいうプロセスを外しても読むことのできる作品になっているかどうかかな」とのことです。メモメモ。。

(水甕岡崎支社 木村美和)



わたくしが復讐と呼ぶきらめきが通り雨くぐり抜けて翡翠かわせみ pp.6
胸をながれる旨くて熱い黄金よ秋は冒瀆にはよい季節 pp.21
やがてそれが墓であったと気づくまで菜の花畑の彼方なるらい pp.57
さみどりの栞の紐を挟みこみやわらかに本を黙らせている pp.92
もう行くよ 弔旗とキリン愛しあう昼の光に君を残して pp.171

 服部真里子さんの第二歌集『遠くの敵や硝子を』(書肆侃侃房)を読んだ。第一歌集よりも難解で不穏な表現が多いように思う。なんだか服部さんが私たち読者に「もっとついてこいよ」と迫っているみたいで、彼女に煽られるように一気に読んだ。
 歌集評についてはネットや各誌にたくさん載っているだろうから、ここでは特に述べない。それよりも私たち歌人が彼女から盗めそうなテクニックについて考えてみたい。

 掲出歌に共通するのは、輝きや美しさを連想させる言葉の中にドキリとするようなネガティブな言葉が一語混ざっているという特徴である。<復讐>、<冒瀆>、<墓>、<黙らせている>、<弔旗>などをそうだとしてみよう。ここでは便宜的に「ダークワード」と呼んでみる。うわー中二病っぽい(私のネーミングセンスが)。
 ここで大事なのは、一首の中におけるダークワードの比重または役割である。一首めは、<きらめき>とそこから連想される<通り雨>の爽やかさ、<翡翠>という美しい鳥の名前に比して、<復讐>という言葉が荒々しく迫る。しかも<わたくし>が<きらめき>に対して<復讐>と名付けているのであり、このキラキラした風景はすべて<復讐>に彩られている、というカラクリだ。どうだ、三〇年遅れの中二病でなくても何度も読み返してしまうだろう。巻頭歌からこの調子だから凄い歌集だ(語彙力)。
 四首めはの四句めまでは割と穏当な言葉を配置しているが、結句で「(本を)<黙らせている>」というなんとなく暴力的なイメージを喚起させる。しかも、決して分かりやすい暴力ではなく、じわじわと怖がらせる、まさに「黙殺させる」主体としての「私」だ。通常、「本を眠らせている」としてしまいがちだが、それだと穏当でお上品な歌にしかならないだろう。
 五首めはもともと<弔旗>というダークワードがメインであるが、そこにいろいろと暗い言葉で飾ってしまうと<弔旗>のインパクトが弱まる。<キリン>、<昼の光>というあえて暗さを連想させない言葉を配置して、<君>への弔意をじんわりと感じさせるのである。そうして、初句と一字空けにこめられた悲しみを味わうことができる。本歌集はこれを巻末歌として締めている。
 自分の歌が歌会で「キラキラしすぎ」と評されたら、一語ぐらいダークワードをひねり出してはどうだろうか。逆に「暗すぎる」と言われたら明るい言葉を考えてみてもいい。それから推敲してみてもいいと思う。

 そうはいっても私は次の歌が大好きだ。ダークワードを駆使して心身ともに攻撃されやすい立場にいる誰かの、反撃の牙を表現している。

夜の雨 人の心を折るときは百合の花首ほど深く折る pp.62

 (水甕 重吉知美)

 服部真里子さんの第一歌集『行け広野へと』の記事はこちら。 
 

野分のわきにも倒れなかったというピーマン刻めば猛暑が死にゆく匂い
左様さようなら夏よ胡瓜きゅうりをガリガリ喰い生姜しょうがおろして秋茄子あきなすを焼く
太陽と土の思い出の味がする平飼い卵のぶっかけごはん
考えて書くこと土を耕すこと命を育てて食べていくこと
草叢くさむらの緑のせていく初秋しょしゅう縷紅るこうの花はひっそり紅い    『水甕』2019年1月号


 愛知県知多半島の農園から野菜と卵を取り寄せている。給料日直後の月一回の楽しみだ。
 荷物の中には、写真や説明書きでいっぱいの農園だよりも入っている。自然災害や害虫との闘い、あるいは共存の様子に、思わず私も一喜一憂する。
 熱意のこもった文章を読んでいると、この人は農園だよりを書きながら考え、考えながら書き、また新たに有機農業への思いを強くするのだろうと感じた。私たちも短歌作品を書きながら考え、考えながら書いていこうではないか。

(水甕 重吉知美)


12月9日に<木ノ下葉子歌集『陸離たる空』を読む会>が、東京で開催された。パネリストとその報告内容については、木村美和さんがレポートしている。

木ノ下葉子『陸離たる空』を読む会①~加藤英彦氏
木ノ下葉子『陸離たる空』を読む会②~田口綾子氏
木ノ下葉子『陸離たる空』を読む会③~清水正人氏

このうち、田口綾子さんが本歌集中における「正しさ」へのこだわりを指摘している。

-----以下、報告レジュメより-----

Ⅱ「正しさ」への志向
 
  視野の端の眼鏡のフレーム消し遣りて仰ぐ景色を二刷(にずり)と思ふ pp.26
  真つ白にこんなにしろくなるのかと指ばかり見る顔よりも見る pp.48
  木洩れ日を映して揺るる壁それが閉鎖病棟の壁であること pp.185

✳︎

  歳時記を覚えてしまひし後の夏季節はかつて眼を打ったのに pp.33
  よしずよしずと売る声のする雲間かな目を閉ぢてゐる方が眩しい pp.101
  海より青き海を見てをり断熱用フィルム貼られしバスの窓越し pp.117

Ⅲ「正しさ」のバリエーション

  医者の来る気配に居様を整へてしまへり正しく嘆かむとして pp.48
  お大事にと言はれて気付くさうだつた私は患者で貴方は医師だ pp.78
  書くほどに冷えゆく指かまだ母を物語になどしたくはなきに pp.88
  吹かれつつ靡かぬままの我が影をときに足から切り離したし pp.106
  きみの名に忌と続ければ唐突に君は死にたり陸離たる空 pp.139
  君のこと物語にした罰としてどんな晴れにも行き止まりができた pp.180
  金環日蝕まさに輪になる瞬間に人の噂を始むる母は pp.188

-----以上-----

この「正しさ」について、パネリストの 加藤秀彦さんが「田口さんのおっしゃる「正しさ」には「社会一般での正しさ」と「<私>の持つ正しさ」の二つの水準があるのではないか」という趣旨のことを指摘した。
私は、加藤さんのおっしゃる前者の意味での「正しさ」、すなわち社会規範についてよく考えることがある。この点にだけ焦点を当てると田口さんの議論の多くを取りこぼしてしまうのだが、しかし、木ノ下さんが規範の歌を詠んでいたという事実はなかなかに面白いように思う。

  医者の来る気配に居様を整へてしまへり正しく嘆かむとして pp.48

これは「望ましさ」としての規範の歌である。他人であり家族の死を公的に見届ける医師の前で、遺族としてどのように嘆いてみせるのが適切か、最愛の家族が亡くなる場面であるにもかかわらず、この冷静さには鬼気すら覚える。

  お大事にと言はれて気付くさうだつた私は患者で貴方は医師だ pp.78

診療室では、患者は患者の、医師は医師の「役割」を演じる。誰かの娘、父親、恋人、夫ではなく、患者/医師としてである。それが診療室での適切な規範であるからだ。加藤さんはさらに医師と患者の非対称的な関係性と、それをすっかり忘れてから<さうだつた>と気づく<私>の奇妙さを指摘している。こうした役割期待に基づく「望ましさ」の規範は、精神科の診察を受ける場面での作品に見られるようになる。

  きみの名に忌と続ければ唐突に君は死にたり陸離たる空 pp.139

私たちは有名人や文化人の名前、あるいは彼らにちなんだものの名前に「忌」をつけることで、ある特定の日を「偲ぶ日」として設定することがある。この歌はそうした私たちの言語規範、慣習としての文化的規範を別の方向からなぞり直すことで短歌にしたものである。

  金環日蝕まさに輪になる瞬間に人の噂を始むる母は pp.188

この歌は<私>の考える「正しさ」と<母>の考える「正しさ」の(ユニークな)対立が指摘されたが、この二者の「正しさ」はいわゆる「価値観の違い」として同じ社会で並存することがある。<金環日蝕>という天体の歴史的イベントの前では、俗世間の噂などにかまけていられない、という人の方が多いだろう。しかし、遠くてよく分からない宇宙よりも身近な人間生活の方が大事、という「正しさ」もある。

私が木ノ下さんの「規範の(再)記述」の技法に拘るのは、それが私(たち)が彼女と肩を並べられる唯一の突破口であるからだ。木ノ下葉子さんのような歌人は、繊細で、感性豊かで、文学的だとされている。そして、そうしたいっぺん通りの賛美の言葉には、「この才能は生まれつきのものだからどうせ近づけない」という勝手な諦めが混じっていることがある。確かに感性の豊かさはそうそう真似できるものではない。しかし、社会規範を観察し記述しなおすことに、感性とか才能は必要ない。彼女はおそらく無意識にそうした技法を展開しているのだろうが、私(たち)はその技法を意識的に身につけることが可能なのである。

(水甕 重吉知美)

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