水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

このブログで、共に短歌を学び、短歌で遊べたら幸せです。
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2018年11月

このエッセイは、主に水甕社の会員に向けて書いています。

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「若い人は」と言うな、とまでは言わない。が、軽々しく「若い人は」と発言した時に相手との分断を作ってるかもよ、という話。

私が短歌を始めて結社に入ったのは30代半ばだったが、短歌結社では60歳以下なんてのはくちばしの青いガキ、または小娘扱いである。だから仕方がないといえばそうなのだが、会話の流れや文脈によっては「お若いから」というフレーズから侮蔑や拒絶の意思を感じ取ることがあった。
そうした「若い人は」という年長者による分断フレーズについては、最近では短歌結社誌『塔』の短歌時評で濱松哲朗さんがたびたび採りあげて、冷静に明確に分析している。この人の9月号11月号の時評をお読みになれば、私が対面で「若い人は」と言われた時の、講演などで堂々と「今時の若い人の歌は」と印象で物申すバカ歌人を見た時の、モニョモニョする嫌な感じを共有していただけるだろう。
ちなみに短歌評論を書きたいと志願する人は、濱松さんの文章の書き方を参考にするといいと思う。抽象度はあるけど決して分かりにくいわけではなく、引用元をうやむやにせず、嘘を書かないように配慮したスタイルは、評論と呼ぶに相応しい。

さて、そういう私も45歳になり、20代30代の人よりはるかに年長者になった。先に言っておくが「ババア」と呼ぶ奴は◯す。
彼らからはともかく、私から見れば彼らは「若い」。だが、その年齢層の若さを指摘することで分断以外の何が得られるだろうか。自分が排除されてきたルサンチマンを誰かにぶつけるなんていうサイクルは、結社を確実に滅ぼす。例えば、自分が若い頃に担わされた役を年少者に「誰もが通るから」と押し付けてはいけない。それよりは雑誌のページを任せた方がはるかに若手が育つやすいだろう。「ルサンチマンを忘れる」テクニック、「ルサンチマンを他の誰かにぶつけない」テクニックを身につけるべき時期に、私もいるのである。

(水甕 重吉知美)

浅草寺の喧騒を知らぬ貌をして木製の壁の店が佇む
戸を開けて入れば句集歌集らが明るく迎えるカウンター席
俳人と歌人を兼ねる女主人ゆったりと着る割烹着は白
真後ろのテーブル席から聞こえくる礼儀正しき人らの句会
戸を開けて出れば日差しはまだ強く浅草の街の喧騒に戻る (『水甕』2018年12月号)

当ブログでも紹介した企画カフェの思い出を詠んだ。(期間限定!俳句・短歌カフェに行ってきた

(水甕 重吉知美)

先日、映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観てきた。




ちょ、ちょっと待って!これ短歌ブログだから!あとで短歌の話するからタブを消さないで!!! 

イギリスのバンド・クイーン (Queen) の伝記映画である。1973年のバンド結成から、人気最盛期、バンド解散の危機を経て、1985年のライブエイド (Live Aid) での演奏までを描いている。ボーカルのフレディ・マーキュリーは、この後、エイズで1991年に亡くなっている。

伝記映画ではあるが、マーキュリーのマイノリティ(特にゲイ・セクシュアリティ)としての人生に焦点が当てられており、他の存命のメンバー三人のプライベートな部分はほとんど表現されていない。
ファンに知られている史実とは異なる描写もあるようで、例えばマーキュリーが最晩年の恋人ジム・ハットンと出会った時期と、HIV(エイズウイルス)感染発覚の時期を前後させているらしい。
まあ、私、クイーンのファンでもなんでもなかったんで、全部クイーンファンの同居人に聞いたりググったりしたことなんですけどね。

短歌の歌集を何冊か読んだことのある人なら分かるだろう(はい、ここから短歌の話です)。事実をすべて正確に記述して行くことと、表現することが一致するとは限らない。
短歌の先生が歌集を出されたときに話してくださったのだが、作品の配列は必ずしも発表順ではないという。時系列を考えながら連作などの順番を構成して一人の主人公の物語を作るという、そんな趣旨のお話だった。つまり、その人は自分をモデルにした<私>を主人公に、一冊の歌集を表現しきったのだろう、と理解した。
すべてを記録して表現するということは不可能で、どの事実を採用して時系列を組むかということも、表現の技法なのである。

一方で、『ボヘミアン・ラプソディ』については、BuzzFeed の Pier Dominguez が、マーキュリーのマイノリティ性の表現が不十分かつ不適切であることを指摘している。
私も、マーキュリーの元婚約者メアリー・オースティンとの関係がロマンチックに描かれすぎていることが気になった。オースティンはマーキュリーのアンドロジナスとしての魅力を開眼させ、ゲイとしての自認まで導いた上で身を引いて(史実とは違うらしい)、別れた後も良き友人として彼を見守り、ドラッグや見境のないセックスに溺れる彼を救おうとする人物として表現されている。つまり「ゲイに献身的に尽くしてくれる女性の友人」というイデアであり、ノンケ女としてはちょっとムズムズするのである。もちろんこれによって、ゲイに対する偏見が増長される恐れはある。
表現しようとするとき、事実を羅列するだけなんてことはできない。どの事実を採用し、時系列をどう組むか。そして、何を表現したか何を表現しなかったかで他者から批判を受けることは当然起こりうる。それは短歌であっても、結社誌に載せた一首の歌であっても同じことだろう。うん、無理やり短歌の話で落ち着けたぞ。

とはいえ、この映画は音楽が素晴らしく、ミュージカル映画としては最高だと思う。史実と異なると承知しながらも隣で見ていたクイーンファンである同居人は感動して泣いていたし、私のようなニワカでも楽しめた。子どもたちと観る人は、映画の後に1980年代のゲイの人々が置かれていた困難について話してあげてほしい。

(水甕 重吉知美)

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   私ごとで恐縮ですが、この度歌集を刊行いたしました。
よろしかったらお読みください。

   花散らす雨の重たさ   卵管を静かに下る卵の老いゆく
   香りつつひと夜に散りし木犀の金の環めぐらせ人を拒みぬ

(水甕芦屋支社  加藤直美)

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