水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

このブログで、共に短歌を学び、短歌で遊べたら幸せです。
宜しくお願いします。

《このブログでやりたいこと》
①ネット歌会 ~どなたでもお気軽にご参加下さい!第三回水媒花歌会は、詳細の決まり次第ブログで告知します。
②学びの共有 ~研究発表、短歌イベント参加レポート、読んだ歌集の感想など~
③交流    ~告知やちょっとした日常風景、作品など~
      寄稿受付 kimuramiwa11☆gmail.com (☆を@に変えてください)
             ※原稿料はお支払いできません。

2018年09月

  IMG_0496

  塔所属の江戸雪さん主催の超結社の歌会が、月に一度大阪の中之島で行われている。2回程参加させてもらったのだが、どこの結社にも所属していない無所属の人も多く、年齢も歌歴もバラバラ、もちろん上下関係もないので皆対等に批評し合う形だ。
   普通(私が思う普通)、結社の歌会では先生と呼ばれる指導者に、歌のいいところ悪いところを具体的に教えてもらえる。短歌のいい悪いは一概には言えないし、もちろん会員からはいろいろな意見が出るが、それを参考にしつつも基本的には指導者のいいと思う歌の基準が歌会のベースになるので、自分が信頼できる指導者の下で学ぶべきだろう。
    中之島歌会にはその基準がないので、「この歌大好き!」という人も酷評する人も様々で、私自身も「えっ、そうなの?」「へぇーそうなんだ」「いや、納得いかない」と今まで培ってきた歌の基準は、いい意味で揺さぶられたし、刺激的だった。たくさんの意見が出ても最終的にその歌がいいのかどうか結論が出ないことも多いが、結論を出す必要は無いのかもしれない。自分と異なる考え方を排除はしないが、積極的に取り入れたり歩み寄ることもない。そんな風に感じた。
   結社に縛られることなく好きな時に作り、このような歌会に参加もできるし、SNSやフリーペーパーなどで、作品を発表することも簡単に出来る時代だ。無所属の参加者のひとりは、結社に入る意味がわからないと言っていた。
 短歌ムック『ねむらない樹』の中で、伊舎堂仁氏が結社について次のように述べているのが印象的だ。「(結社には)無理やりさせられるという良さもありますよね。献本されたから歌集を読むとか、歌集評を依頼されるとか。そこから豊かになっていくこともある。ネットでやっていると無理やりやらされることがないじゃないですか。ランダムなことがおこるのはむしろ結社なんだと最近は思います。」
   所属の結社をはなれて外から客観的に見ることで、その良さも、そうでない点もあらためて見えてくる。中之島歌会に参加してこんなことを感じた。  (水甕芦屋   加藤直美)


580-yuugao

 子供の頃、父が何気ない調子で「夏はよく人が亡くなる」と言ったことが耳に残っているせいか、怪談や肝試しのせいか、お墓参りのせいか、夏は霊界を近くに感じる。蝉や蛙の合唱に息苦しさとともに安らぎを覚えるのは、音の法則や、自然のヒーリング効果のためばかりではなさそうだ。

源氏物語でも、八月は物の怪の動きが活発になる。葵の上や、紫の上が亡くなるのも八月だし、一条の御息所が亡くなるのも、宇治で八宮が亡くなるのも月、……。

過日、バスでの移動時間に『源氏物語』のDVDを観た。大学で『源氏物語』を教えている方が持ってきてくれたのだが、なんでも、原文を講義しても生徒が集まらないのだとか。数時間のことで途中までしか見られなかったが、物の怪と化した六条の御息所が、どこの家柄とも知れず全てにおいて下と見ている夕顔にとりついたときの様子と、文句ない家柄である葵上にとりついたときの様子との比較を興味深く感じた。

しかし、どこか物足りないというか、ダイジェストを見せられたような味気なさを感じた。『源氏物語』をDVDにすると、原文で描かれなかった物をつないだような映像になってしまうのだ。脚本向田邦子にしてこうなのだから、それは編集者の責任ではなく、映像というものの特性によるのだと思う。原文には、もののけのおどろおどろしさは描写されるものの、死や争い、性交などといったあからさまな場面はほとんど描写されない。『源氏物語』は歌物語であり、この「歌」とは「和歌」である。現代短歌以上に描かれないものは多い。描かれないことにより広がる世界の大きさを、あらためて実感した。

(水甕岡崎支社 木村美和)


↑このページのトップヘ