水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

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2018年07月

716(海の日)、現代歌人集会春季大会が奈良で開催された。

今季のテーマは古都奈良ならではの「万葉に遊ぶ」。新理事長の林和清氏の基調講演に続き、内藤明氏の講演、後半は大辻隆弘氏、勺禰子氏、小黒世茂氏、吉岡太朗氏によるパネルディスカッションが行われた。

日本最古の和歌集である万葉集。短歌に携わっているからには勉強したいと思いつつも、自力で読み、さらに実作に生かすのはなかなか難しい。そこで私のような万葉集初心者でも、実作のヒントになると感じたことを報告したい。

 

1つ目は、古代的な言葉として「見る」に対する「見ゆ」、「思う」に対する「思ほゆ」の使い方。

 

  あまざかる鄙の長道ゆ恋ひくれば明石の門より大和島見ゆ   柿本人麻呂
  近江の夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ 

 

「見る」は自分が意識的に見ること。それに対し「見ゆ」は自然発生的に見える、目に映る、目に入ときに使われる。「思ほゆ」も同様、自然に思われるという意味だ。微妙なニュアンスの違いだが、歌の印象は大きく変わる。現代短歌でもしばしば使われているので、鑑賞や実作に活かせると思う。

 

  竹群のうす闇うごく奥処にて立ちつつ冷ゆる竹の肉見ゆ    大辻隆弘『抱擁韻』

 

 

 

 二つ目は、序詞を使った歌。

 

  秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いつへのかたに我が恋やまむ      磐姫皇后

「序詞」はある語句を導きだすために前置きとして述べる言葉だ。上の句の情景の描写が下の句の人事(心情)に比喩的なイメージを与えている。景と情の付け合わせは、現代短歌でも多数見られ、短歌の基本構造とも言われるが、万葉集の頃からすでに使われていた形なのだ。

  

あけがたは耳さむく聞く雨だれのポル・ポトといふ名を持つをとこ  大辻隆弘『抱擁韻』

 

 (水甕芦屋支社 加藤直美)



「パナマ文書、ウィキリークス、プーチン、習近平、ジョン・ル・カレ、モサック・フォンセカ、ジョン・ビンガム、ヴィヴィアン・グリーン……」帯には、一つだけで一冊になりそうな固有名詞が、ずらりと並ぶ。ページを開くと、体制のなかで生きるしかない個人の、生きるための、または魂の自由を得るための戦いが、スピード感あるタッチで描かれている。
「敵を知り、己を知れば、百戦殆うからず」とは孫子の言葉だが、第二次世界大戦も、イラク侵攻も、トランプ大統領誕生も、砲火を交えない情報戦ですでに優劣が決していた。
そこで暗躍するスパイたちの話である。
国家権力を相手に、命を懸けてつく「嘘」のめくるめく輝き。虚実定かならぬ日常をおくるスパイにとり、いまここに在るということの「真実」。己自身をも騙し、人に真実の感動を与えるホンモノの「嘘」。それが世界を動かす「真実」。……何が真実で何が嘘だか分からなくなってくる。
体制の枠の中にありながら、なんという自由であろう。なんという孤独であろう。
或いはスパイとは、生まれる前からそのように生きることを定められているのかもしれない。


うたかたの世界を紡ぎだすロニーの呪術力は、間違いなくホンモノだった(P94稀代の詐欺師ロニーの知人)

「そう、私は嘘つきなのです。嘘つきとして生まれ、育てられました。そして生きんがために嘘をつき続ける世界で鍛えられ、いま小説家として嘘つきを実践しているのです」(P100ジョン・ル・カレ)


物語が書かれた時点ではいまだ現実のものになっていない出来事をフィクションだとして描き、近未来にそれが現実のものとなる。これこそがインテリジェンス小説なのである(P124佐藤優) 

「最後の勝負は、いかに敵の懐深く飛び込み信頼を勝ち取れるかにかかっている。人間力を駆使して持ち帰る情報(インテリジェンス)だけが、ダイヤモンドのような輝きを放つ」(帯より/P248)

(水甕岡崎支社 木村美和)






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手に平にひいやりとのる絹ごしに静かに刃しづめるこころ
〈話す〉とはすなはち〈放す〉熱湯に動き止まざる豆腐みてゐる

(水甕岡崎支社 木村美和)




  水甕芦屋支社、7月第2土曜日の定例歌会の後、恒例になった勉強会を行った。今回のテーマは大森静佳歌集『カミーユ』。

この歌集は以前にもこのブログでとりあげたが、映画「カミーユ・クローデル」や、ロダンの彫刻作品などをベースにした短歌が多数掲載されている。映画や彫刻、絵画などの芸術作品に短歌を重ねる、「二次創作」である短歌作品をどう読むかが、今回の勉強会の主題となった。

  

 みずうみに顎を浸せるつめたさのロダン〈パンセ〉を夜更け見ていつ

 

ロダンの〈パンセ〉という作品を私は知らなかったが(今はネットで写真や解説が簡単に検索できる)、

石の塊の上に頭部のみが、彫られている奇妙な像。顎はその石にのせられ、「みずうみに顎を浸せるつめたさ」はそこから引き出されたと思われる。モデルは、恋人のカミーユ・クローデルで、ロダンとの破局の後、生涯を閉じるまで精神を病んだという女性である。

このようなロダンの作品の壮絶ともいえる背景の上に、作者の思いを短歌として表現すること、つまり「二次創作」の是非を、この勉強会の中で結論づけるには至らなかったが、それを考える貴重な時間となった。

(水甕芦屋支社 加藤直美)


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おもしろいなあ
踏みつけている気も 踏みつけられている気も 
なく(あるのかな?)
ただ飛び立とうとしているだけ
うちの子たちみたい
二匹とも
がんばれ

って短歌にしたかったのだけれど
上手くいかなくて断念
やっぱり 詰め込みすぎだな

(水甕岡崎支社 木村美和)






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