2018年04月
牛乳石鹸
「ぱらぷりゅい」より②(改)
ヨーソロー!と大声だしてみたかった 泣き顔みたいな雲を見上げる
江戸雪「抱擁」
1首だけで読むと、場面が幾つか想定される。相聞のようにも読めるし、あまり主張することのなかった自身を振り返る場面とも読めよう。
しかしフェミニズムの色濃い本連作中にこの歌を読むとき、作者の中に在る男性性と女性性とが絡み合う心の叫びとして、鮮やかに一首が立ち上がる。
「ヨーソロー!」と大声を出すことは、ついに叶わず、〈だしてみたかった〉という仮名表記の優しさで空を見上げる。諦念と慈しみが混ざる表情で、空を見上げる作者。
うつろいやすく、あまりにも儚い雲に己を投影した〈泣き顔みたいな〉作者の顔が目に浮かんだ。
(木村美和)
江戸雪「抱擁」
よう そろ [1] 【宜▽ 候▽・良候▽】
〔「よろしく のあと,船が今 ている へ,または された へ せよという 。 「一 -」
」の転〕 (https://www.weblio.jp/content/ようそろ)①
②
「よろしい」の意で(。 )
が用いる語。また,1首だけで読むと、場面が幾つか想定される。相聞のようにも読めるし、あまり主張することのなかった自身を振り返る場面とも読めよう。
しかしフェミニズムの色濃い本連作中にこの歌を読むとき、作者の中に在る男性性と女性性とが絡み合う心の叫びとして、鮮やかに一首が立ち上がる。
「ヨーソロー!」と大声を出すことは、ついに叶わず、〈だしてみたかった〉という仮名表記の優しさで空を見上げる。諦念と慈しみが混ざる表情で、空を見上げる作者。
うつろいやすく、あまりにも儚い雲に己を投影した〈泣き顔みたいな〉作者の顔が目に浮かんだ。
(木村美和)
遅ればせながら「ぱらぷりゅい」より①
遅ればせながら「ぱらぷりゅい」を、読ませていただきました。
歌友曰く、読みごたえがあり、特に歌会が面白いとのこと。
本当でした~。
そのおばちゃんパワーや、ボケと突っ込み的な掛け合いは、(ごめんなさい)、
短歌に興味がなくても笑えてしまいそうです。
言うまでもなく、その中に在る読みの鋭さや深さがあってこその面白さです。
ルポルタージュの良さのおかげで、臨場感を持って堪能できました。
作品の頁は、それぞれの個性が際立ち、繰り返し読ませていただきました。
惹かれた歌を少し紹介します。
入り口はどこだったのか持ってきた水を分けあう春日野墓苑
岩尾淳子「あかるい耳」
やわらかな春の日差しに包まれて、広い静かな墓苑にいる。
同じような墓石の立ち並ぶなか、作者は来た道を見失うが、それほど困るふうでもない口調で、のんびり水を分け合っている。春日野墓苑という固有名詞も、情景を引き立てる。
余分な情報が省かれていることで、一つ一つの語に表面的な意味以上のイメージが広がる。
〈入り口〉は、墓苑の入り口であろうが、彼岸此岸、夢うつつ、などの抽象的なイメージも浮かぶ。近年、墓じまいの話題なども聞かれ、埋葬の在り方もさまざまであり、私も死後は海にまいてくれれば……などという感覚だが、この歌を読んでいると、死者と静かに交信する場として墓石の立ち並ぶ墓苑をとても温かく感じる。〈水を分けあう〉は、飲料水か、或いは墓を洗うためのものか。生命に直結する〈水〉を、共に来た誰か、または死者と分け合う行為は、作者の今日まで繋がる生命への祈りのようにも思われた。
(木村美和)
歌友曰く、読みごたえがあり、特に歌会が面白いとのこと。
本当でした~。
そのおばちゃんパワーや、ボケと突っ込み的な掛け合いは、(ごめんなさい)、
短歌に興味がなくても笑えてしまいそうです。
言うまでもなく、その中に在る読みの鋭さや深さがあってこその面白さです。
ルポルタージュの良さのおかげで、臨場感を持って堪能できました。
作品の頁は、それぞれの個性が際立ち、繰り返し読ませていただきました。
惹かれた歌を少し紹介します。
入り口はどこだったのか持ってきた水を分けあう春日野墓苑
岩尾淳子「あかるい耳」
やわらかな春の日差しに包まれて、広い静かな墓苑にいる。
同じような墓石の立ち並ぶなか、作者は来た道を見失うが、それほど困るふうでもない口調で、のんびり水を分け合っている。春日野墓苑という固有名詞も、情景を引き立てる。
余分な情報が省かれていることで、一つ一つの語に表面的な意味以上のイメージが広がる。
〈入り口〉は、墓苑の入り口であろうが、彼岸此岸、夢うつつ、などの抽象的なイメージも浮かぶ。近年、墓じまいの話題なども聞かれ、埋葬の在り方もさまざまであり、私も死後は海にまいてくれれば……などという感覚だが、この歌を読んでいると、死者と静かに交信する場として墓石の立ち並ぶ墓苑をとても温かく感じる。〈水を分けあう〉は、飲料水か、或いは墓を洗うためのものか。生命に直結する〈水〉を、共に来た誰か、または死者と分け合う行為は、作者の今日まで繋がる生命への祈りのようにも思われた。
(木村美和)
インターネットで自作短歌を公開することについて
今回は、主に水甕社の社友(会員)に向けて、インターネットで自作の短歌を公開するときの心がけみたいなものについて、私の考えをお話ししようと思う。これは私が今までに見聞したケースから導き出した経験則であって、水甕社のルールでも、このブログ「水媒花」を代表する見解でもない。まったく個人的な判断基準であることを強調しておきたい。歌壇やネット歌壇での「常識」とも齟齬があるかもしれない。もちろん結社内外の諸姉諸兄に強制するものでもない。
最近、ネットと「未発表/既発表」の区別について訊かれるようになった。少し長くなったが、私自身の「身の処し方」を参考にしていただきたく、書き出してみる。
最近、ネットと「未発表/既発表」の区別について訊かれるようになった。少し長くなったが、私自身の「身の処し方」を参考にしていただきたく、書き出してみる。
1.インターネットで自作短歌を公開することとは
「インターネットで自作短歌を公開する」とはどういうことか。基本的な原則は「不特定多数の人にその作品を見られることが可能な状態にしていること」である。具体的には、次のような行為だ。
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