水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

このブログで、共に短歌を学び、短歌で遊べたら幸せです。
宜しくお願いします。

《このブログでやりたいこと》
①ネット歌会 ~どなたでもお気軽にご参加下さい!第三回水媒花歌会は、詳細の決まり次第ブログで告知します。
②学びの共有 ~研究発表、短歌イベント参加レポート、読んだ歌集の感想など~
③交流    ~告知やちょっとした日常風景、作品など~
      寄稿受付 kimuramiwa11☆gmail.com (☆を@に変えてください)
             ※原稿料はお支払いできません。

2018年04月

降る雪の積もりゆく雪の静けさよ青梅の山に雪の華咲く
『水甕』2018年5月号

 「インターネットで自作短歌を公開することについて」では、長々と私の考えを書いた。このブログでネット歌会をやろうという企画があり、それに先立って私の個人的な指針を予め示してみたのだ。自分の作品の権利は自分で守れ、と改めて言っておこう。
 実は、ネット歌会のために二回ほどテスト段階の歌会を行なっている(「第2回水媒花テスト歌会」)。昨日、そのテスト歌会が無事に終わった。
 さて、オフの歌会でもネット歌会でも、歌会に出した作品はどこかに出すことができる。他の参加者からもらった意見(批評や感想など)を基に書き直してもいいし、そのまま出してもいい。結社誌、結社や総合誌の新人賞、新聞歌壇など、新作を求めている媒体に出すことができる。
 しかし、改めて言っておくが、結社誌などの媒体に掲載されるまで、あるいはコンクールの受賞が決定するまで、それらの作品をネットで迂闊に披露しない方がいい。ネットで公開した時点で、その作品は「新作」でなくなる。その点で言えば自分だけでない、歌会の他の参加者の作品もそうだ。「いい歌だ」と感動しても、他の人の歌会作品をTwitterなどに挙げるのは控えるべきだ。自分の作品の権利を守る気がないなら本人の好きにすればいいが、他人の「未公開」の歌をネットに挙げるなら話は別だ。
 もちろん、いったん発表された歌なら、自作でも他人の作品でもネットで引用して紹介していい。

 掲出歌は、ある歌会に出した作品の改作である。一月の歌会で次のような作品を出した。

降る雪の積もりゆく雪の真白さよ窓から見える山の明るさ

 これに対していろいろ意見をもらい、掲出歌のように書き直してから結社の詠草として提出した。歌会の醍醐味はこういうところだと思う。他の人の声を聞き、自分の歌に採り入れる。それを結社などに出して活字になった時に「ああ、この歌は自分一人ではできなかったなあ」と実感するのである。

(重吉知美)

このブログでやりたいことの1つにネット歌会がありますが、
このたび、第2回水媒花テスト歌会を下記の日程で行いました。

4/16(月)~ 4/20(金) 出詠;無記名
4/21(土)~ 4/22(日) 投票;1人1首選
4/23(月)~ 4/27(金) 意見交換
4/28(土)~ 4/29(日) 作者発表

ネット歌会が初めてという方が過半数でしたが、普段会うことのないメンバーでの歌会は新鮮で、意見交換も活発に行うことができました。
本番については、まだ時期など検討中ですが、毎回ブログ上で告知し、その時どきにお集まりいただいたメンバーで行う予定です。
10名前後の定員を設けるつもりですが、当面、集まり過ぎる心配はないかな。
歌歴や結社などは問いません。お時間のあるときに、お気軽にご参加いただけましたら幸いです。

今回ご協力いただけました皆様、有難うございました。

(木村美和)


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田村昌子『せんにちこう』より

二段目の抽斗押せば三段目ふわりふくらむ母の桐箪笥

ほったりと菜の花の闇に包まれて真昼の猫を見失いたり

牛乳を三百年間そそぎいるフェルメールのふくよかな女(ひと)

幼児が抓んで切れたきん色の蜥蜴の尻尾バケツに撥ねる

小手毬のふさやかに揺るる日面に夫の白髪切り揃えおり

(木村美和)









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 足を止め蠅の交尾をながめてる少年の肩なだらかにして

                         (木村美和)

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作者がこれから住む、パリのアパルトマンから本歌集は始まる。

 

  手にとれば天道虫は歩みだしメトロの音が遠くに聞こゆ

 

窓の外に凍えていたという季節外れの天道虫を、作者は何を思い手にとったのか。天道虫が、手の中で歩みだすと同時に、作者のパリでの時間が、現実の実感を伴い動き始める。仕事とともにある日常を象徴するように、メトロの音が響く。

 

左岸より右岸にわたり右岸より左岸にもどるビルアケム橋

   白く顔を塗りたる男ふたり来て薄暮に去りぬ白きその顔

牛たちをかつて屠りし十五区は吟遊詩人の名前を冠す

公園の池のほとりの秋深くためらひしのち犬泳ぐかな

  

作者が暮らしているパリの風景が、旅行者のそれとも定住者のそれとも異なる、一人の生活者の冷静な視点で描かれる。作者が実際に見聞きしたと思われる出来事が、随筆のように丁寧に綴られている。

あとがきに「パリでは、左岸の十五区に住んだ」とある。ビルアケム橋は、日々の通勤で往復した橋か。橋を中心におき、その日々の移動のみに単純化された表現に、短歌ならではの面白さを感じる。

二首目にも、そのような単純化が見られる。男たちは何者か、何のために顔を白く塗っているのか……、ある筈の情報がない不安感とともに、白い顔のみが薄暮の記憶に残される。

物事の本質を捉えようとする透徹した眼差しは、住居のある十五区について、〈牛たちをかつて屠りし〉ことと、〈吟遊詩人の名前を冠す〉こととの二つの面に焦点を当てる。また、公園の池を犬がためらひしのち泳ぐ姿に、秋の深まりを見る。

    

  春めきて今日はサラダにパルマ産ハムとごろつとメロンをのせる

  オリーブのパテを塗りつつ夏の日をひとりぼつちのふたりで語る

  血と油の豚の腸詰ブーダンの皿には焼いた林檎を添へて

  垂乳根の母と小ざさの最中食む白葡萄酒のコルクを抜いて

            註.「小ざさ」は、東京の吉祥寺にある和菓子屋。

 

食に因んだ歌にも魅力的なものが多い。なにより美味しそうであるし、異国の生活が匂いたつようだ。作者のちょっとした拘り、または嗜みが垣間見える。食は、体と心に与える栄養であり、思考を介さず、1人で、た易く快楽を得る方法でもある。異国の地に一人働く日常において、季節を感じたり、ストレスを感じたり、風土を感じたり、さまざまな場面で、その時間を彩る食べ物が添えられる。久しぶりに母と過ごす時間にもやはり、場を和ませる食べ物が添えられる。

  

  こんな日は博物館を訪ひてドードー鳥の骨かぞへたし

 

パリにいて、作者はよく本を読んでいる。『シジフの神話』、『古今和歌集』、「超現実主義(シュルレアリスム)の書」、「理性の祭典」などの、さまざまな書物が登場する。それらもまた、作者に、安らぎと栄養を与えているようだ。

ドードー鳥について、「1598年に人間に発見されてから僅か83年で、ドードーは絶滅した」「近年、モーリシャス島で化石化したドードーの骨が多数見つかり、良質な骨格標本が2体つくり出されている」(ピクシブ百科事典https://dic.pixiv.net/a/ドードー鳥)とある。
作者の思いは想像するのみであるが、緊張を強いられる仕事の合間の、なんだか楽しそうなひとり遊びの時間のようにも感じられた。


                                                                                        (木村美和)

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