水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

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2018年03月

野牡丹のわが足元にはらり落つ寄り添ふ孫の赤きペディキュア
田中昭子 『水甕 ふくおか』No.2 (2017年)

野牡丹野牡丹

 孫の歌は避けた方がいいという話をよく聞く。
 だが、そうなのだろうか。本当に孫の歌は詠んではいけないのだろうか。よく考えてみてほしい。「孫」がいるのは稀有なことである。平凡なことではない。子どもを産まず、養子を育てる経済力のない私にはきっと孫もできないだろう。そんな甲斐性無しの娘を持った私の母に、結果的に孫などいない。自分とその子どもがどうにかうまく繁殖しないと(あるいは子になる人に出会わないと)「孫」がいるということはなかなか実現しないのだ。ましてや孫と仲が良ければこんな僥倖はない。
 ただし、孫がいることは割合としては稀有なはずだが、その経験者数は少なくない。もし孫の短歌を詠みたいなら、他の人たちとは違う自分の経験のオリジナリティをどう打ち出すかだ。
 掲出歌の眼目は、何と言っても結句(けっく)の「赤きペディキュア」である。サンダルなどからむき出しの指先に映える真っ赤なペディキュアだろう。野牡丹は紫色のようだが、「私」の足元に落ちた花びらの色とペディキュアの色が鮮やかに想像される。
 そもそもこの「孫」はどんな人なのだろう。成人した女性(多分)、普段から華やかな格好を好む人、「私」に寄り添ってくれるほど住居かあるいは心理的な距離が近い人、ばあちゃん孝行の優しい人。この一首で、孫の人物像や孫と「私」との関係性がくっきりとして読者は作者が羨ましくなるだろう。それも「赤きペディキュア」という語の選択が、孫の歌としては平凡ではない語がいいからなのだ。

(重吉知美)

件名は「訃報」の二文字 ひらいても閉じても消えない訃報の二文字
岸原さや歌集『声、あるいは音のような』(2013年 書肆侃侃房)

 短歌を作り始めた人の中には「空白(スペース)」の使い方がよく分からない、ということがある。どの作品にも必ず一字空白を使ってみたり、上句(かみのく)と下句(しものく)の間に必ず入れてみたり。時には各句の間に全て空白を入れてみたりする人もいる。この場合、掲出歌で例えると、「件名は 「訃報」の二文字 ひらいても 閉じても消えない 訃報の二文字」みたいになる。「ここに空白を入れないと文字が重なって読みにくいのではないかしら」などと心配する気持ちは分かるのだが、大丈夫、そういう空白はかえって読みにくいから。

 掲出歌の空白はこの一首の中で必然的で、むしろなくてはならない空白である。おそらくケータイかパソコンのメールで受け取ったメールなのだろう。「訃報」という件名と、その詳細を一応目にするが、驚いて思わず画面を(ケータイを)閉じてしまったのだろう。そしてもう一度念のために見直すが、訃報の二文字は残酷にも「消えない」。
 この一文字分の空白は「私」の受けた衝撃や訃報を信じたくない気持ちなどの感情的な混乱、一旦受け取ったメールを閉じてまた開いた時の時間的空白などを暗示しており、たったこれだけの空白が複数の要素を意味して歌に奥行きを持たせるのである。
 この歌には笹井宏之(1982-2009)の訃報であることを示す詞書が付いていて、連作の一首めとして機能している。が、一首としても成立しており、読者の中には自分の体験を引き出して共感する人たちも多いだろう。それにはやはりこの一字空白が効果的に使われていることが大きい。

 空白を用いるならば、その一首の中でどのくらい必要か、その位置でいいのか、どういう意味をもたせたいのかなどをよく考えてみるといい。

(重吉知美)

巻頭歌、


本当の気持ちはどこにあるのだろうマトリョーシカのようなわたくし


多くの大人は、幾種類かのペルソナを使い分けることを当たり前にしている。しかしこの作者の中には、矛盾を孕むその時時の感情が、同時に、同じ熱量でせめぎ合っているのではないか。一読してそのような印象を持った。


作者は、本歌集の中で可能な限り自身をむき出しにしようと試みる。ところが、開けても開けても別の〈わたくし〉が顔を出す。この〈マトリョーシカのような〉さまが、そのまま〈本当の気持ち〉なのであろう。


  神は(くそ)を拭かない公衆トイレから喘ぐように歌わるる讃美歌


神は、糞のような汚いものを触らない。そもそも糞など、その体内に生成されないのではないか。そのような神が、糞を生成し、公衆トイレで排泄する人間を、救うことなどできるのか。そのように考える作者がいる。そして同時に〈公衆トイレから喘ぐように歌わるる讃美歌〉を聞く作者がいる。或いは、歌っているのは作者自身かもしれない。


  使用済みコンドーム降ればぺちぺちとアスファルト鳴る夜のAメロ

 アスファルトに射精を 人間の造りしものすべては孕み地球はぶわぶわぶわっと膨らむ


美しいが、身も蓋もない諦念に身を浸し〈夜〉を聴いている。そうかと思えば、切実さと、やや幼びた明るさの同居する口調で、〈人類の造りしものすべて〉に、愛と希望を託す。

生理的な歌が、ノスタルジーを帯びた美しさで描かれている。〈マトリョーシカのような〉作者にとって、知・情・意とは、いかにも移ろいやすい信用ならぬ代物であり、生理的欲求こそが、根源的信頼に足るということか。


  眼球を埋めるように閉ざしつつ自慰をするときだけを信じる

  壁一枚へだてて響くおしっこの音にあなたの木漏れ日がある


鬱病を患う人も、快便直後は少し気分が安らぐ、という話を聞いたことがある。事実かどうか確認はしていないが、さもありなん。

〈眼球を埋めるように〉〈あなたの木漏れ日〉という巧みな喩に加え、自慰するときの、またはおしっこをするときの、生理的快感を呼び起こされて、読者はこれらの歌を、美しく気持ち良く感じる。


このように自身の感覚を繊細に感知する作者であるが、しかし、〈死ぬほど好きな〉〈運命の女の子〉を見る視点には、奇異なものがある。

〈運命の女の子〉を鏡として、反射される作者自身が描かれたり、、或いは二人の世界がそもそも幻であるかのような描かれ方がされていたりする。


  きみが見えない どんな窓もきみを見るとき鏡になって

  街並みの似て何処までも残像 睡りゆく残光 黄昏は絞首台のような眩しさ

鍋を食うきみはとってもかわいいな鍋を食って鍋よりもかわいい


作者は「言葉の力」を疑う。疑いながら挑む。沈黙を怖れ、饒舌になりつつ、本当の気持ちにたどり着けないもどかしさが随所に見られる。しかしそれでも言葉の力で、人と関わること、人に愛を与えることに挑戦し続ける。言葉の力で愛に挑む一つの在り方として、本歌集を読んだ。


  舞うようにゆっくり喋れば月面の手話通訳士のうつくしい手技

  台風が来たら踊れよ そのときはおれが瞬間最大風速だ

  手を振ればお別れだからめっちゃ降る 死ぬほど好きだから死なねえよ  

                               (木村美和)

先週、中京大学の文化フォーラムで、鶴崎裕雄教授の話を興味深く聴いた。

俳句は野戦、短歌は城攻めなのだとか。
俳句はそもそも連歌の発句であるから、景色も場面もつぎつぎ移り、自分の番で何が来るか分からない。「急」に対応しなくてはならない。
それに対し和歌は、お題があり、型に従って詠む。1つの物事をじっくりと見つめる。己や日常を消し、心を自然に托し、古典を引用することこそ艶である、との考え。

なるほど、目まぐるしく変化する社会情勢に対応するため、効率を追求し、短期的な結果を求める今の時代、短歌ではなく俳句が流行るわけである。
そして一方、そのような世の中に病んだ心の受け皿としての、短歌の在りようも聞く。
それは短歌の本来の在りようとは言えないが、短歌と福祉、非常に相性が良いと、最近よく思う。

~三階の窓から腕が垂れてゐる諦めに似た灯火をもて

                               (木村美和)



電車を間違えて、はじめて降りた、とある駅のホームに看板があり、「このホームはゆるく線路へ傾いています」とある。看板に気づかなければ気づかなかった傾きで、いや、意識しても分からない程度の傾きなのだが、足元がおぼつかなくなり、体ごとホームに吸い込まれそうな気分になった。

~線路へとゆるく傾く地下鉄のホームを滑る少女の眠り

                                (木村美和)






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