田中昭子 『水甕 ふくおか』No.2 (2017年)
野牡丹
孫の歌は避けた方がいいという話をよく聞く。
だが、そうなのだろうか。本当に孫の歌は詠んではいけないのだろうか。よく考えてみてほしい。「孫」がいるのは稀有なことである。平凡なことではない。子どもを産まず、養子を育てる経済力のない私にはきっと孫もできないだろう。そんな甲斐性無しの娘を持った私の母に、結果的に孫などいない。自分とその子どもがどうにかうまく繁殖しないと(あるいは子になる人に出会わないと)「孫」がいるということはなかなか実現しないのだ。ましてや孫と仲が良ければこんな僥倖はない。
ただし、孫がいることは割合としては稀有なはずだが、その経験者数は少なくない。もし孫の短歌を詠みたいなら、他の人たちとは違う自分の経験のオリジナリティをどう打ち出すかだ。
掲出歌の眼目は、何と言っても結句(けっく)の「赤きペディキュア」である。サンダルなどからむき出しの指先に映える真っ赤なペディキュアだろう。野牡丹は紫色のようだが、「私」の足元に落ちた花びらの色とペディキュアの色が鮮やかに想像される。
そもそもこの「孫」はどんな人なのだろう。成人した女性(多分)、普段から華やかな格好を好む人、「私」に寄り添ってくれるほど住居かあるいは心理的な距離が近い人、ばあちゃん孝行の優しい人。この一首で、孫の人物像や孫と「私」との関係性がくっきりとして読者は作者が羨ましくなるだろう。それも「赤きペディキュア」という語の選択が、孫の歌としては平凡ではない語がいいからなのだ。
(重吉知美)