水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

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2018年03月

黒き津波われを襲ひくる心地してテレビの前に強張りてをり
作田清江(秋葉四郎編『平成大震災』2013年 いりの舎)

 短歌結社「歩道」はアンソロジーとして歌集『平成大震災』を発行している。東北在住の会員たちによる作品はもちろんのこと、その他の地域やアメリカ在住の会員たちの作品も収録している。
 掲出歌は東京在住の作者による。東京は遠いから関係ないとか、いや死者も出ているし計画停電はあるしやはり被災地だとか、お腹いっぱいになるような混乱が起きていたが、「津波映像の恐怖」という点においては国内外の多くの人が共通して体感したのではないだろうか。
 視覚からの情報は強烈である。津波の映像を見た「私」は怯え、しかし逃げることもできず、まるで黒い津波に捉えられてしまった人のように動けなくなり「強張(こはば)」ってしまう。整いつつ過不足なく内容を伝えている歌だ。この作者は映像を見たことで心身に不調をきたさなかっただろうか、それだけが心配である。

 『平成大震災』を読んでいて気づいたのは、人はメディアでの見聞を詠もうとするということ、そしてそれは案外、作品として成立しているということだった。掲出歌を私たちが理解できるように、メディア体験もまた体験、メディアを通して被災したこともある種の被災体験と言えるのである。
 そして一方で、東北在住会員たちによる直接的な被災体験の歌が生々しく迫る。特に巻頭の中村とき(岩手在住)による連作「巨大津波」は、津波による死の恐怖という題材と、それに負けていない技術が光っている。

(重吉知美)

順接の接続詞もて文章をつなぐがごとき生を拒みつ
佐竹游『草笛』(2014年 現代短歌社)

 昨年2017年の短歌研究新人賞は、その受賞者・小佐野彈が同性愛者だということでも耳目を集めた。その話題を聞いた時、私はもう一人の歌人を思い起こしていた。
 「佐竹游」は筆名かもしれないが、彼女は少なくとも歌壇においてはレズビアンであることを表明して短歌を制作するオープンリー・ゲイである。しかし、彼女が2014年に第一歌集を発表した時はその完成度の高さにもかかわらず、小佐野ほどの話題にはならなかったようだ。私自身もこの歌集を遅れて知ったとはいえ、そのことが正直言って不満である。確かに佐竹が総合誌の賞を取るなど華々しく目立つ行為を選んだわけではないから仕方がないが、マイノリティとしての経験をモチーフにした迫力は負けていないし、それでいて気品のある文体は多くの読者が模範とするはずだ。

うしろより双の乳房を手につつむ月の面をおほへるごとく

 同性の恋人と愛し合う性愛の歌はすごく眩しい(ネットスラングで言うと「尊い」)。そして、異性愛の女たちも、男の体をこんなふうに能動的に愛してみたいし、愛していいんだと気付かされる。

 冒頭の掲出歌は、「順接の接続詞」のような人生をきっぱりと拒んだ、という「私」の態度を示している。つまり、いわゆるノンケの女性としての表向き「順調な」人生、男に愛されて子どもを産んで育てる、という安定した人生を捨てて、彼女は自分自身の愛と生を選んだのである。この態度によって、彼女は同性の恋人との大切な時間を勝ち取った。冒頭の歌に、異性愛者の男性たちすらも自分の人生を見つめ直し、勇気付けられることがあるのではないだろうか。

いちまいの蜻蛉の羽根におほはれて世界はあをき五月となりぬ

 こんな軽やかな歌も歌える人だ。
(重吉知美)
 
☆ 結社誌『水甕』2018年2月号の一海美根による歌壇時評「当事者性をうたう」も併せてお読みください。(水甕社ホームページ http://mizugame100.web.fc2.com

メジロメジロ

~ぼやきつつ鼻を啜りつつ佐田さんが蜜柑を割つては枝に刺してる

                            (木村美和)

大村ゆらぎ『夏野』を読む (2017年12月9日、参加者6名

 

作者 大室ゆらぎ

一九六一年生まれ、「短歌人」に所属。二〇一七年には本歌集のタイトルとなった「夏野」三十首で短歌人賞を受賞、それ以前にも結社内の数々の賞を受賞している。『夏野』は、第一歌集『海南別墅』に続く第二歌集で、本年度、第四十三回現代歌人集会賞を受賞した。

 

 

春の雨ゆふべに飢ゑてゆでたまごふたつを蛇のやうに呑み込む

『夏野』の巻頭歌。「ゆで卵を蛇のように呑み込む」。この行為は決して美しいものではなく、むしろ邪悪なイメージをもつ蛇に心を寄せ、自らを重ねていることに怖ささえ感じるが、それがこの歌の特長である。このように作者(人間)と自然との交感を体感的に表現した歌が歌集中には随所にみられ、この一首はそのシンボル的なものである。

 

木のうろに入りしばかりにおもむろにあはれあはれわれは蔓草になるぞ

自分が死んだ後に蔓草になって色々なものに絡まっていくことを想像した一連の中の一首。「あはれあはれわれ」という音の変化が蔓草への変化を表しているようでもある。一首目と同様に自分(人間)と植物を一体化させており、アミニズム的ともいえる。

 

をりをりは世界に触れておほかたは世界を拒むために持つ指

人に逢ふ夢の反芻あかつきの空を(よご)してみだれ降る雪

これらの歌からは作者は人間や恋愛に嫌悪感を感じているように読み取れる。「指」は世界に触れて世界を拒むもの。本来ならば白く美しいはずである雪が空を汚すものと捉えられ、人間界やそこに存在する人や恋愛などに対する思いが象徴的に表現されている。

 

地図に散る島のかたちのそれぞれに夜明け飲み干す水の直立

この歌集中では珍しく解釈が難しい一首で、上句「地図に散る島のかたち」と下句の「夜明け飲み干す水の直立」の関連性が分かりにくい。「水の直立」はコップの中で水が直立しているのか。葛原妙子の「酢はたてり」をも思わせる。水を飲み干した後、自分の身体に立つ水とも考えられる。

上の句は瀬戸内海などの多島海の地図を思わせるが、「夜明け飲み干す水」から流し台のステンレスに散り、表面張力で盛り上がった水滴とも解釈できる。

 

 転生といふべく青い無花果の実は生りあまる犬の墓辺に

作者は生物は土に還り転生するという生命観をもっており、〈菜畑は耕転されて蝶々も蝶々のたまごも地に交じりたり〉など同様の歌も多々みられる。

 

 

  小池光の帯文に「かわりばえのしない日常生活に、ギリシャ・ローマの古典などがふと影を添えてくる。その陰影の刻む知的輪郭があざやかだ。これはまぎれもなく〈新古典主義〉の一巻である。」とあるように、日本の古典も西洋の古典にも明るくイリアスや平家物語などの歌もみられる。この歌集のテーマともいえる自然との共存・交感は古典和歌の特長でもある。

現代歌人集会賞の受賞スピーチのなかで大室が「定型を選ぶことで自分を表現したい。「我」は定型に譲り渡し、「我」とは何もない器のようなもの」と述べたのが印象的だったが、『夏野』は自我を手放し自然に譲り渡した歌集であるように感じた。

 

                                     (加藤 直美)

馬酔木馬酔木

作者の第十二歌集。平成二十三年秋から二十六年春までの作品が逆年順に収められている。

  曼珠沙華はなのをはりて気付きたり畢(をは)りかぎりなく華(はな)に近きを
  立ちならぶ幹を夕日の伝ひたりゆめゆめ染むな国防色に


    夢はまたひとつの意志の持続である
  夢はまた火色の言葉と知るまでをあなたと歩く熱砂の上を

作者にとって、火は情熱であり、意志であり、反骨である。

目の前の一輪の花の終わるのを眺めつつ、自身の生、命あるあらゆるもの生、人の作った国の行く末などへ思いは広がる。歌人の眼差しは、その悟りを文字の形にも重ねる。文字(ことば)の持つ魂にも触れる気がした。

   すは 米寿やをら浮きたつ家族(うから)らに華甲へ還る鍵ひとつ欲る

    雪の夜の会話なめらに弾みたりしばし家族に合はす辻褄

家族を詠む歌には、ふと肩の力がぬけたような優しさがありながら、わずかな距離と、一抹の寂しさを感じる。〈華甲〉という歳に、不可能を知りつつ、もしかしたら還れるかも、と思わせるようなどこかユーモラスなものも感じる。上句の柔らかい調べに対する、下句、賢くややきつい響きを持つ「か」で頭韻を揃えた畳みかけるようなリズムの対比が、その場における家族と作者との心情の対比とも思える。

  花は酢に葉は揚げ物に供花の菊いつぽん抜きて味はいてをり
  桃に寄り一茶に寄りゆくわが胸に手足幼き春の蠅くる

菊を味わうだけならば、美しくも軽く読み流すところだが〈供花の菊いつぽん抜きて〉とは凄まじいものがある。上の句のテンポの良い軽さとの対比により、一層、その重さが伝わる。
春の長閑な景色を見ながら、一茶に心を寄せているときにも、作者の目に留まるのは「蠅」。
夏とは違い、弱弱しい春の蠅に、愛情深い眼差しを注ぐ。
これら独特の感性が、歌の深みを増す。

  何に飢ゑこの冬山に来たりしか労はられつつ忘れてしまふ

  
巾広き流れに混じるわれならめ水皺(みじわ)きらめく一滴にあれ
  
木末まで樹液のぼるは羨しけれわれも紛れむ春の樹木に
  
遺るとは死者の記憶を担ふこと馬酔木にふるふ白き壺花

伝統行事やそこに添えられる料理、伝統の文化も多く詠われ、引き継いだものを後世へつなげようとする敬虔が滲む。作者のなかには、何人もの先人の記憶が留まる。その一人一人と、作者は交信しながら生きているようだ。馬酔木の小さな白い花一つ一つは、〈死者の記憶〉を容れる壺であるようなイメージで読んだ。
前の世から続く「水」の流れが、作者を受け容れ、潤す。それはまた命や詩の源でもあり、作者の祈りとも言えよう。

大きな流れの中で作者に与えられる「水」の祈りと、作者が自らの強い意志で灯し続ける「火」の情熱。この二つの輝きを感じながら、本歌集を読んだ。

    変化なきけふの倖せいつぽんの鉛筆に添ひ寝ころびてゐる


                                (木村美和)


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