水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

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2018年03月

 巻頭歌
  三月の真っただ中を落ちてゆく雲雀、あるいは光の溺死 

 鳥を飼いたかったこともサンダルもなべて金星ほどの光点

 ひまわりの種をばらばらこぼしつつ笑って君は美しい崖

 

 生き急いでる印象を受けた。精一杯に生きている、と言うべきか。
 作者を取り巻く風景も人々も、またたく間に作者の脇を過ぎてゆく。明るく温かくなりはじめた三月。空高く舞い上がり縄張りを主張するための囀りののち、真っ逆さまに落ちる雲雀は、まさに光そのものであろう。強烈な印象を与えた光は、しかし雲雀もろとも「今」を溢れる光に溺れて、見えなくなる。手を伸ばせばすぐそこに老いがあり、その先には終末が見えている。だからこそ「今」は光に満ち溢れ、作者はその
にたくさんの光を掬い上げようとする。指の間から、漏れてしまったものたちへ思いを寄せる。そして、光が失われることを怖れて、はるか彼方、見ることのできない世界にまで手を伸ばそうとする。


  雪の日の観音開きの窓を開けあなたは誰へ放たれた鳥

  鶏肉がこわかった頃のわたくしに待ち合わせを告げてくれませんか

 けれど私は鳥の死を見たことがない 白い陶器を酢は満たしつつ   

 

 鳥は「今」を耀く光に、像とつかの間の生を与えた、云わば光の具現として作者を弄ぶ。
 観音開きと鳥との組み合わせに、胸肉(鳥の死)を連想するのは読み過ぎであろうか。作者は、〈鳥の死を見たことがない〉と言う。鳥は作者にとっての「今」、つまり作者自身の生きている時間へ直結するのであるから。生きるために必要な、飲食(おんじき)の準備として〈白い陶器を酢は満たしつつ〉あるのに。唐突に「けれど」で始まるあたり、解釈がややこしいが、まだ何色にも染まる可能性を持つ、白い陶器、硬質な、それでいて脆い器には、刺激に溢れた液体が、きらきらと「今」(作者が生きている時間)を集めている。鶏肉、つまり鳥の死がこわかった頃の作者には、「今」をわずかにでも引き延ばす約束が、慰めとなるであろう。 

  花降らす木犀の樹の下にいて来世は駅になれる気がする

 

〈なれる〉と言うからには、なりたいのであろう。しかし「駅になりたい」とはいかなることか。気になりながら読み進めると、駅がさまざまに詠われている。


  煌々と明るいこともまた駅のひとつの美質として冬の雨

  ジャンプと水だけ提げて晩秋のホームの端から端まで歩く

  終電ののちのホームに見上げれば月はスケートリンクの匂い

  駅前に立っている父 大きめの水玉のような気持ちで傍(そば)へ 

 

 暗く冷たい冬の雨の日にも駅は〈煌々と明るい〉。先のことなどあれこれ考えず「今」を楽しむだけの時間をゆっくり味わうにも適している。いつだってそこにあり(居て)、作者を迎え、送り出し、時に小さな喜びを与えてくれる。愛しい「今」をつかの間留め置く、そういうものに作者はなりたいのかもしれない。

 

  星が声もたないことの歓びを 今宵かがやくような浪費を

  逆さまにメニュー開いて差し出せばあす海に降る雨のあかるさ

 

チャーミングに、精一杯に「今」を楽しもうとするのは、歌集の根底を流れるキリスト教精神と関わりがあるのか。いや、もともとの性格と強い精神力かな。
                             (木村美和)
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3月23日
芦屋川の桜、ようやく咲き始めました。
開花前の桜には、エネルギーが満ちている。

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幾万の蕾膨らむ黒い幹は身籠りし日のあのあたかさ
花恋へば心に花を身籠れり花冷えの風われを吹き抜け
老木の洞に抱ける古時計もうすぐ咲くと振り子が揺れる
                                加藤直美(2017年水甕7月号)




 

ハワイと聞いて、思い浮かべるものは何だろうか?

常夏の島、青い海、フラダンス、挨拶は何でも「アロハ」でOKらしい…などなど。


ハワイにイギリス人であるキャプテン・クックが来航したのが1778年。それから次第に白人文明が広がり、宣教師らも移住を始め、白人文化と教育が広められた。

ハワイアンと呼ばれる先住民の領土は奪われ、使用していた言語も英語に塗り替えらた。1898年、アメリカ合衆国の領土となった後しばらくは、ハワイ語は公式に学校と政府から排除されるという処分を受けた。(生活の中では使用可)


ハワイアンに対する過酷な歴史を遡ると、言語だけではない様々な差別があったが、ようやく1978年に、ハワイ語はハワイ州の公用語と認められ復活をした。


長い歴史を端折って申し訳ないが、1959年にハワイがアメリカ合衆国の50番目の州として制定された時、挨拶で使われるハワイ語の「アロハ」には、『優しさ、調和、喜び、謙虚さ、忍耐』を表す先住民族の精神があるとされ、ハワイ州法の一部に記されたのである。

なんと人間味のある州法ではないか!

私はこのことを知った時、胸が熱くなった。このことは特記しておきたい事柄である。


そのアロハの精神とは、

Akahai (アカハイ):思いやり

Lokahi (ロカヒ):協調性

Olu’olu (オルオル):喜び

Ha’a Ha’a (ハアハア):謙虚・素直な心

Ahonui (アホヌイ):忍耐


これらの頭文字からなるALOHAなのである。aloha-sand-hawaii-beach-tropical-vacation-summer


観光地に行くと、大きな声で「アロ~~~ハ!」と挨拶されることがある。

まぁ、気持ちよく大きな声で「アロ~~~ハ!」と返してもいいだろう。

が、そこにはこれだけの深い意味があることを思い出して、どうか心からアロハと言って欲しい。


統治され土地奪はれし先住民の話すハワイ語「アロハ」の重み / シンタニ優子

                   平成28年(2016)水甕賞受賞作『侵食』より


   (シンタニ優子)


文章のいきなりだが桜は詠いにくい。

桜が詠いにくい理由はプレッシャーが酷いという一言で済むんだけどそのプレッシャーのかかりっぷりの様のエッセイとする。

 

桜って花鳥風月で毎年春に必ず咲く。

堤防にあるし学校にあるし公園にあるしちょっとした会社に街路にもある。

海岸線ずーっと桜がある所もあるし湖岸ずーっと桜の所もある。

街にも村にも都会にも居るしなんなら民家にも居たりするし兎に角まあ日本では隙あらば桜を植えちまおうぜ、って誰か言ったんじゃないか?って疑う位に結構ちょこちょこ居るんである。だからなのか、だからじゃ無いのかは解らないけれど桜が咲いたらおおごとなんである。
毎年あちこち咲くのにもう今生見られないじゃないのか?って疑う位に日本中騒ぐ。酒を飲み宴を開きどんちゃん騒ぐ輩もいれば船から桜を見たりいかにも大人しく愛でてます~って輩も心の中はどんちゃん騒ぎなんである。

そんなただ事ではない調子を幼い頃から肌で感じまくって育った純潔のジャパニーの私には「桜はおおごと」というのが感覚で備わっているのだ。(私が純潔?って部分の異論は認めない)

それを短歌にしてみたまえ、と言われた日には「ひょえ~ご勘弁を~」しかない。

桜って日本でしょ日本って天皇さまでしょ天皇さまって和歌でしょ和歌って国歌でしょさざれ石でしょそんな重たい想い無理無理と一人で大変にパニくる。

 

 花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に  小野小町   
 高砂の尾の上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ    権中納言匡房

 

ほら!ほらほら言ったでしょ、このド迫力重厚感ラグジュアリー感・・・

古語が難しく意味がわからなくともやはりただ事ではない感じがびんびんにでている。

巌の如く微動だにしないだろう気迫。そして圧倒的に綺麗。パーフェクトだ。

だ・か・ら、詠いにくいったらありゃあしないし。やりにくい。

でも同じ人間だったであろう小野小町(おののこまち)さんや権中納言匡房(ごんちゅうなごんまさふさ)さんが詠ったんだから私にもやれるんじゃないか?という気にもなる。

 

諦めてはいけない。きっとできる。パーフェクトはパーフェクトに任せるとして

私なりの綺麗な桜の短歌を作りたい。

                    (寄稿:水甕名古屋支社 鶴田よめ)

           

 

新聞を一部求める待機時の長い沈黙なぐさめるため
五指の先少し黒ずむ新聞を一通り読み終えた頃には
どう読んでも分からぬものは分からぬとビットコインの記事諦める

『水甕』2017年11月号より
(重吉知美) 

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