水媒花

みんなで綴る短歌ブログ。

このブログで、共に短歌を学び、短歌で遊べたら幸せです。
宜しくお願いします。

《このブログでやりたいこと》
①ネット歌会 ~どなたでもお気軽にご参加下さい!第三回水媒花歌会は、詳細の決まり次第ブログで告知します。
②学びの共有 ~研究発表、短歌イベント参加レポート、読んだ歌集の感想など~
③交流    ~告知やちょっとした日常風景、作品など~
      寄稿受付 kimuramiwa11☆gmail.com (☆を@に変えてください)
             ※原稿料はお支払いできません。

大村ゆらぎ『夏野』を読む (2017年12月9日、参加者6名

 

作者 大室ゆらぎ

一九六一年生まれ、「短歌人」に所属。二〇一七年には本歌集のタイトルとなった「夏野」三十首で短歌人賞を受賞、それ以前にも結社内の数々の賞を受賞している。『夏野』は、第一歌集『海南別墅』に続く第二歌集で、本年度、第四十三回現代歌人集会賞を受賞した。

 

 

春の雨ゆふべに飢ゑてゆでたまごふたつを蛇のやうに呑み込む

『夏野』の巻頭歌。「ゆで卵を蛇のように呑み込む」。この行為は決して美しいものではなく、むしろ邪悪なイメージをもつ蛇に心を寄せ、自らを重ねていることに怖ささえ感じるが、それがこの歌の特長である。このように作者(人間)と自然との交感を体感的に表現した歌が歌集中には随所にみられ、この一首はそのシンボル的なものである。

 

木のうろに入りしばかりにおもむろにあはれあはれわれは蔓草になるぞ

自分が死んだ後に蔓草になって色々なものに絡まっていくことを想像した一連の中の一首。「あはれあはれわれ」という音の変化が蔓草への変化を表しているようでもある。一首目と同様に自分(人間)と植物を一体化させており、アミニズム的ともいえる。

 

をりをりは世界に触れておほかたは世界を拒むために持つ指

人に逢ふ夢の反芻あかつきの空を(よご)してみだれ降る雪

これらの歌からは作者は人間や恋愛に嫌悪感を感じているように読み取れる。「指」は世界に触れて世界を拒むもの。本来ならば白く美しいはずである雪が空を汚すものと捉えられ、人間界やそこに存在する人や恋愛などに対する思いが象徴的に表現されている。

 

地図に散る島のかたちのそれぞれに夜明け飲み干す水の直立

この歌集中では珍しく解釈が難しい一首で、上句「地図に散る島のかたち」と下句の「夜明け飲み干す水の直立」の関連性が分かりにくい。「水の直立」はコップの中で水が直立しているのか。葛原妙子の「酢はたてり」をも思わせる。水を飲み干した後、自分の身体に立つ水とも考えられる。

上の句は瀬戸内海などの多島海の地図を思わせるが、「夜明け飲み干す水」から流し台のステンレスに散り、表面張力で盛り上がった水滴とも解釈できる。

 

 転生といふべく青い無花果の実は生りあまる犬の墓辺に

作者は生物は土に還り転生するという生命観をもっており、〈菜畑は耕転されて蝶々も蝶々のたまごも地に交じりたり〉など同様の歌も多々みられる。

 

 

  小池光の帯文に「かわりばえのしない日常生活に、ギリシャ・ローマの古典などがふと影を添えてくる。その陰影の刻む知的輪郭があざやかだ。これはまぎれもなく〈新古典主義〉の一巻である。」とあるように、日本の古典も西洋の古典にも明るくイリアスや平家物語などの歌もみられる。この歌集のテーマともいえる自然との共存・交感は古典和歌の特長でもある。

現代歌人集会賞の受賞スピーチのなかで大室が「定型を選ぶことで自分を表現したい。「我」は定型に譲り渡し、「我」とは何もない器のようなもの」と述べたのが印象的だったが、『夏野』は自我を手放し自然に譲り渡した歌集であるように感じた。

 

                                     (加藤 直美)

馬酔木馬酔木

作者の第十二歌集。平成二十三年秋から二十六年春までの作品が逆年順に収められている。

  曼珠沙華はなのをはりて気付きたり畢(をは)りかぎりなく華(はな)に近きを
  立ちならぶ幹を夕日の伝ひたりゆめゆめ染むな国防色に


    夢はまたひとつの意志の持続である
  夢はまた火色の言葉と知るまでをあなたと歩く熱砂の上を

作者にとって、火は情熱であり、意志であり、反骨である。

目の前の一輪の花の終わるのを眺めつつ、自身の生、命あるあらゆるもの生、人の作った国の行く末などへ思いは広がる。歌人の眼差しは、その悟りを文字の形にも重ねる。文字(ことば)の持つ魂にも触れる気がした。

   すは 米寿やをら浮きたつ家族(うから)らに華甲へ還る鍵ひとつ欲る

    雪の夜の会話なめらに弾みたりしばし家族に合はす辻褄

家族を詠む歌には、ふと肩の力がぬけたような優しさがありながら、わずかな距離と、一抹の寂しさを感じる。〈華甲〉という歳に、不可能を知りつつ、もしかしたら還れるかも、と思わせるようなどこかユーモラスなものも感じる。上句の柔らかい調べに対する、下句、賢くややきつい響きを持つ「か」で頭韻を揃えた畳みかけるようなリズムの対比が、その場における家族と作者との心情の対比とも思える。

  花は酢に葉は揚げ物に供花の菊いつぽん抜きて味はいてをり
  桃に寄り一茶に寄りゆくわが胸に手足幼き春の蠅くる

菊を味わうだけならば、美しくも軽く読み流すところだが〈供花の菊いつぽん抜きて〉とは凄まじいものがある。上の句のテンポの良い軽さとの対比により、一層、その重さが伝わる。
春の長閑な景色を見ながら、一茶に心を寄せているときにも、作者の目に留まるのは「蠅」。
夏とは違い、弱弱しい春の蠅に、愛情深い眼差しを注ぐ。
これら独特の感性が、歌の深みを増す。

  何に飢ゑこの冬山に来たりしか労はられつつ忘れてしまふ

  
巾広き流れに混じるわれならめ水皺(みじわ)きらめく一滴にあれ
  
木末まで樹液のぼるは羨しけれわれも紛れむ春の樹木に
  
遺るとは死者の記憶を担ふこと馬酔木にふるふ白き壺花

伝統行事やそこに添えられる料理、伝統の文化も多く詠われ、引き継いだものを後世へつなげようとする敬虔が滲む。作者のなかには、何人もの先人の記憶が留まる。その一人一人と、作者は交信しながら生きているようだ。馬酔木の小さな白い花一つ一つは、〈死者の記憶〉を容れる壺であるようなイメージで読んだ。
前の世から続く「水」の流れが、作者を受け容れ、潤す。それはまた命や詩の源でもあり、作者の祈りとも言えよう。

大きな流れの中で作者に与えられる「水」の祈りと、作者が自らの強い意志で灯し続ける「火」の情熱。この二つの輝きを感じながら、本歌集を読んだ。

    変化なきけふの倖せいつぽんの鉛筆に添ひ寝ころびてゐる


                                (木村美和)


野牡丹のわが足元にはらり落つ寄り添ふ孫の赤きペディキュア
田中昭子 『水甕 ふくおか』No.2 (2017年)

野牡丹野牡丹

 孫の歌は避けた方がいいという話をよく聞く。
 だが、そうなのだろうか。本当に孫の歌は詠んではいけないのだろうか。よく考えてみてほしい。「孫」がいるのは稀有なことである。平凡なことではない。子どもを産まず、養子を育てる経済力のない私にはきっと孫もできないだろう。そんな甲斐性無しの娘を持った私の母に、結果的に孫などいない。自分とその子どもがどうにかうまく繁殖しないと(あるいは子になる人に出会わないと)「孫」がいるということはなかなか実現しないのだ。ましてや孫と仲が良ければこんな僥倖はない。
 ただし、孫がいることは割合としては稀有なはずだが、その経験者数は少なくない。もし孫の短歌を詠みたいなら、他の人たちとは違う自分の経験のオリジナリティをどう打ち出すかだ。
 掲出歌の眼目は、何と言っても結句(けっく)の「赤きペディキュア」である。サンダルなどからむき出しの指先に映える真っ赤なペディキュアだろう。野牡丹は紫色のようだが、「私」の足元に落ちた花びらの色とペディキュアの色が鮮やかに想像される。
 そもそもこの「孫」はどんな人なのだろう。成人した女性(多分)、普段から華やかな格好を好む人、「私」に寄り添ってくれるほど住居かあるいは心理的な距離が近い人、ばあちゃん孝行の優しい人。この一首で、孫の人物像や孫と「私」との関係性がくっきりとして読者は作者が羨ましくなるだろう。それも「赤きペディキュア」という語の選択が、孫の歌としては平凡ではない語がいいからなのだ。

(重吉知美)

↑このページのトップヘ