傲慢な読み
「勝ち負けの問題じゃない」と諭されぬ問題じゃないなら勝たせてほしい
俵 万智『チョコレート革命』
昨日の朝日新聞の「短歌時評」、大辻隆弘の「分断を越えるもの」を読んだ。
〈東日本大震災から7年、短歌界はいまなお分断の問題に苦しんでおり、このような言論上の分断はその後、ジェンダー・世代間格差・経済格差といった問題にも波及した〉と述べられている。
その中で、瀬戸夏子の論考をとりあげ、掲出歌を
〈瀬戸は、この歌の「勝たせてほしい」という切迫した響きのなかに、男性優位社会のなかで抑圧されている女性の叫びを聞く。その叫びの切実さのなかに俵との連帯の可能性を感じた。〉と記す。
私は掲出歌を恋愛における勝ち負け(勝ち=妻 負け=妻になれなかった愛人である私)と、解釈していた。『チョコレート革命』のテーマから考えてそう捉えるのが自然で、この歌にジェンダーの問題を含ませることは意外だったし、違和感を覚えた。
だが、そんな通り一遍の解釈は、実は傲慢な読みなのかもしれない。20年以上も前のこの作品を、おそらく当時の俵と同年代であろう瀬戸にそうと思わせるところが、この歌の魅力なのかもしれない。読者それぞれの人生に、それぞれの勝ち負けがあるのだ。ちなみに就活中の息子は、この歌の勝ち負けは就活の勝ち負けだと言い、スポーツ好きの夫は野球の試合を連想したそうだ。
(加藤直美)
~月
~月
人ひとり呑みこむ月の静けさであなたは長い白髪を梳く
古井戸に遠く水音聞きながらあなたの眉を書き足してゐる
言つたこと全てを長い奇跡とし足元を照らす懐中電灯
(木村美和)